連日ほとんど寝たきりで甲子園漬け。今夏は重症。(哲




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August 1182015

 鶏頭の俄かに声を漏らしけり

                           曾根 毅

には植物というより、生きものに近いような存在感を持つものがある。鶏頭もそのひとつ。花の肌合いが生きものそのものといった感じもあり、個人的には少々苦手。生命力も旺盛な花で、真夏の暑さでもぐんぐん成長し、直射日光の下で深紅や黄色の鮮やかな花を付ける。その鶏頭が声を漏らすという。「俄かに」とは、急に、だしぬけに、という意味。同句集が東日本大震災の作品が多く収められているということを踏まえると、掲句は強靭な鶏頭が見た惨状への声と思わせる。鶏頭が生きものめいているだけに声を持つことに一瞬なんの躊躇もなかったが、それはいかにも不気味で禍々しい。作者は四十歳未満であることが応募資格の第4回芝不器男俳句新人賞受賞。震災ののちの現状を平素の景色のなかで詠む。副賞が句集上梓というのも若い俳人へのエールにふさわしい。〈滝おちてこの世のものとなりにけり〉〈桐一葉ここにもマイクロシーベルト〉『花修』(2015)所収。(土肥あき子)


August 1082015

 青梅や昔どこにも子がをりし

                           甲斐羊子

しかに、子供の姿をあまり見かけなくなった。全国的な少子化という客観的な裏づけもあるけれど、昔のように子供らの遊び場が一定しなくなったせいもあるだろう。昔は、子供らの集まる場所はほぼ決まっていた。青梅など実のなる木の周辺なども、その一つだった。餓えていたころには、食べられるものがどんな季節にどこにあるのか。恐ろしいほどに、よく知っていたっけ。しかし飢餓の時代であっても、青梅を口にすることは親から禁じられていた。中毒をおこすので、厳禁だという。しかし子供らは、そんなことに頓着はしない。中毒よりも満腹である。そんな子供らと親とのせめぎあいが長くつづけられている間に、気がつけば世の中は掲句の世界へと移ってしまっていた。青梅か、あんまり美味しいものじゃなかったな。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


August 0982015

 たいようは空であそんで海でねる

                           てづか和代

日記の一行のような句です。夏休みに、海水浴に行った思い出でしょうか。童女は、波にたわむれ、海にただよい、砂浜のパラソルの下で寝ころんで、雲の流れを追います。太陽は、強烈な光を放射していて、目をつぶっても瞼の薄皮を突き抜けて、目の中はオレンジ色の光です。午後になって再び、波にたわむれ、海にただよい、砂浜のパラソルの下で寝ころんで、雲の流れを追います。さっきはまぶしくて目をつぶってしまったけれど、いまは、わきあがり始めた入道雲をじっと見続けることができます。午前中にパラソルの前方にあった太陽は、今、パラソルの後方にあるからです。このとき、8才のてづか和代さんは、たいようは空であそんでいることをしりました。夕方、民宿の窓から海に沈む夕日を見て、和代さんも、すっかり眠くなりました。またあしたあそびましょう。なお、掲句は、各国の児童が参加したハイク・コンテストから優秀作品をまとめた『地球歳時記』(1995)所載で、英訳も付記しておきます。The sun Plays in the sky and Goes to sleep in the ocean(小笠原高志)




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