2015ソスN8ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0482015

 そしてみんな大人になりぬ灸花

                           村上喜代子

五の「そしてみんな」の「みんな」と括られたなかには、作者自身に加え、親しい誰彼、そしてわが子も含まれるだろう。やりとげた充実感に満たされつつ、手が離れてゆくさみしさが押し寄せる。胸に空いたがらんとした空間がじわじわと広がる思いに途方に暮れる。どこかでアガサ・クリスティーの名作「そして誰もいなくなった」の、登場人物がひとりずつ減っていく恐怖も引き連れているように思われるのは、大人になることで失ってしまうものの大きさを大人である作者、そして読者もじゅうぶん知っているからだろう。喜ぶべき成長の早さを嘆いてはならぬと思いながらも抱いてしまう複雑な心情を映し、花弁の芯に燃えるような紅紫色を宿す灸花が赤々と灯る。現代俳句文庫77『村上喜代子句集』(2015)所収。(土肥あき子)


August 0382015

 火薬工場の真昼眼帯の白現われ

                           杉本雷造

ういう句に出会うと、おそらくは人一倍反応してしまうほうだ。父親の仕事の関係でしばらく、花火工場の寮に暮していたことがあるからだ。花火といえば、この時季がかき入れ時。と同時に、事故の多発期。いまよりもずっと脆弱な管理体制下にあった昔の花火工場では、真夏の事故には、いわば慣れっこ、ああまた「ハネたか」という具合であったが、ときには死者も出る。飛び散った肉片を集めるために、警官達が割りばしをもって右往左往していた姿は忘れられない。そんな環境の工場に白い眼帯をした者が現れたら、誰しもが事故と結びつけて反応してしまう。このような反応は、その職場によってさまざまだろうが、その怪我が工場とは無関係なことがわかったあとでも、「よせやい、この暑いのに」と笑ってすますまでにはちょっと時間がかかる。無季に分類せざるを得ないが、私の中では夏の句として定着している。『現代俳句歳時記・無季』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


August 0282015

 雲の峯通行人として眺む

                           永田耕衣

景の句として読めます。「雲の峯」に「通行人」を連ねたところに意外性があります。凡庸な発想なら、「行人」や「旅人」としたくなるところですが、遠方上空に沸き立つ大自然と都市生活者を対置したところに、大と小、聖と俗、自然と人間の違いをくっきりと浮かび上がらせています。雄大な自然を形容する季語に、平凡な日常語をぶつけることによって、お互いが言葉の源義に立ち戻りはじめます。なお、この通行人の行動を、耕衣が目指した超時代性として読むことも可能です。すると、「雲の峯」という季節の標識を、季節の通行人が眺めて通り過ぎる意となり、実景は心象風景へと転化します。『非佛』(1973)所収。(小笠原高志)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます