2015N83句(前日までの二句を含む)

August 0382015

 火薬工場の真昼眼帯の白現われ

                           杉本雷造

ういう句に出会うと、おそらくは人一倍反応してしまうほうだ。父親の仕事の関係でしばらく、花火工場の寮に暮していたことがあるからだ。花火といえば、この時季がかき入れ時。と同時に、事故の多発期。いまよりもずっと脆弱な管理体制下にあった昔の花火工場では、真夏の事故には、いわば慣れっこ、ああまた「ハネたか」という具合であったが、ときには死者も出る。飛び散った肉片を集めるために、警官達が割りばしをもって右往左往していた姿は忘れられない。そんな環境の工場に白い眼帯をした者が現れたら、誰しもが事故と結びつけて反応してしまう。このような反応は、その職場によってさまざまだろうが、その怪我が工場とは無関係なことがわかったあとでも、「よせやい、この暑いのに」と笑ってすますまでにはちょっと時間がかかる。無季に分類せざるを得ないが、私の中では夏の句として定着している。『現代俳句歳時記・無季』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


August 0282015

 雲の峯通行人として眺む

                           永田耕衣

景の句として読めます。「雲の峯」に「通行人」を連ねたところに意外性があります。凡庸な発想なら、「行人」や「旅人」としたくなるところですが、遠方上空に沸き立つ大自然と都市生活者を対置したところに、大と小、聖と俗、自然と人間の違いをくっきりと浮かび上がらせています。雄大な自然を形容する季語に、平凡な日常語をぶつけることによって、お互いが言葉の源義に立ち戻りはじめます。なお、この通行人の行動を、耕衣が目指した超時代性として読むことも可能です。すると、「雲の峯」という季節の標識を、季節の通行人が眺めて通り過ぎる意となり、実景は心象風景へと転化します。『非佛』(1973)所収。(小笠原高志)


August 0182015

 悲しさを漢字一字で書けば夏

                           北大路翼

の句集『天使の涎』(2015)を手にした時は春だった。そして付箋だらけになった句集はパソコン横の「夏の棚」に積まれ今日に至った。悲しさは、悲しみより乾いていて、淋しさより深い。夏の思い出は世代によって人によって様々に違いないが、歳を重ね立ち止まって振り返ることが多くなって来た今そこには、ひたすら暑い中太陽にまみれている夏のど真ん中で、呆然と立ち尽くしている自分がいる。暦の上では今年の夏最後の土曜日、来週には秋が立つ。他に〈冷奴くづして明日が積みあがる〉〈三角は全て天指す蚊帳の中〉〈拾ひたる石が蛍になることも〉〈抱くときの一心不乱蟬残る〉。(今井肖子)




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