2015N731句(前日までの二句を含む)

July 3172015

 老鶯の声つやつやと畑仕事

                           満田春日

の鳴き声は秋のジジッジジッの地鳴きに始まって冬のチャッチャッの笹鳴き、ホーホケキョウの春の囀り、夏の老鶯の鳴き盛りと四季を彩ってゆく。秋冬に山にいたものも、春には公園や庭の藪中や川原のヨシやススキの原などに移ってくるが、鳴き声は聞こえても姿はなかなか確認できない。一説には鶯にも方言があって地方地方での鳴き方には差があるらしい。繁殖相手に競争が少ない地方ではのんびりと鳴き、競争の激しい所では激しく鳴くとも言われている。一般にホーホケキョウは「法、法華経」と聞きなされている。今畑打つ傍らで鳴く鶯の声は恋の一仕事を終えた余裕なのかつやつやと聞こえる。あるいは熟練した人間国宝の様な鳴き技かも知れぬ。夏の萬物の盛るころ、命に懸命に向かうのは鳴きしきる老鶯も畑打つ人間もおなしである。他に<からませし腕の記憶も青葉どき><乳母車上ぐる階段アマリリス><短夜の書架に学研星図鑑>など掲載。俳誌「はるもにあ」(2014年8月号)所載。(藤嶋 務)


July 3072015

 草取りの後ろに草の生えてをり

                           村上喜代子

始めは柔らかかった草も夏の日にさらされ、雨に打たれどんどんふてぶてしくなってゆく。地面からはとめどなく草が噴出してきて、放っておけばたちまち家の周りが雑草だらけになる。田舎の家で草取りをすると、玄関で草取りをして裏まで回って、また玄関を見れば取り残した草だけでなく、もう新しい草が生え始めている。まったく草取りは果てしない作業に思える。夏の盛りに田んぼに草取りをする人をあまり見かけなくなったのは農薬が飛躍的に進歩したせいかもしれないが、そう除草剤に頼るわけにはいかないだろう。田舎にも久しく帰らず、草取りも何十年もしたことがないが田舎の家や墓所を維持するのは並大抵なことではないと掲句に出会ってつくづく思った。『村上喜代子句集』(2015)所収。(三宅やよい)


July 2972015

 鈴本のはねて夜涼の廣小路

                           高橋睦郎

鈴本」は上野の定席の寄席・鈴本演芸場のことであり、「廣小路」は上野の広小路のことである。夜席だろうか、9時近くに寄席がはねて外へ出れば、夏の日中の暑さ・客席の熱気からぬけて、帰り道の広小路あたりはようやく涼しい夜になっている。寄席で笑いつづけたあとの、ホッとするひと時である。高座に次々に登場したさまざまな噺家や芸人のこと、その芸を想いかえしながら、家路につくもよし、そのへんの暖簾をくぐって静かに一杯やるもよし、至福の時であろう。「夜涼」は「涼しさ」などと同様、夏の暑さのなかで感じる涼しさのことを言う。睦郎は2001年に古今亭志ん朝が亡くなったとき「落語國色うしなひぬ青落葉」という句を詠んで、そのあまりに早い死を惜しんだ。小澤實が主宰する「澤」誌に、睦郎は「季語練習帖」を長いこと連載しているが、掲句はその第67回で「涼し、晩涼、夜涼」を季語としてとりあげたなかの一句。「『涼し』という言葉の中には大小無数の鈴があって響き交わしている感がある」とコメントして、自句「瀧のうち大鈴小鈴あり涼し」を掲げている。「澤」(2015年7月号)所載。(八木忠栄)




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