2015N729句(前日までの二句を含む)

July 2972015

 鈴本のはねて夜涼の廣小路

                           高橋睦郎

鈴本」は上野の定席の寄席・鈴本演芸場のことであり、「廣小路」は上野の広小路のことである。夜席だろうか、9時近くに寄席がはねて外へ出れば、夏の日中の暑さ・客席の熱気からぬけて、帰り道の広小路あたりはようやく涼しい夜になっている。寄席で笑いつづけたあとの、ホッとするひと時である。高座に次々に登場したさまざまな噺家や芸人のこと、その芸を想いかえしながら、家路につくもよし、そのへんの暖簾をくぐって静かに一杯やるもよし、至福の時であろう。「夜涼」は「涼しさ」などと同様、夏の暑さのなかで感じる涼しさのことを言う。睦郎は2001年に古今亭志ん朝が亡くなったとき「落語國色うしなひぬ青落葉」という句を詠んで、そのあまりに早い死を惜しんだ。小澤實が主宰する「澤」誌に、睦郎は「季語練習帖」を長いこと連載しているが、掲句はその第67回で「涼し、晩涼、夜涼」を季語としてとりあげたなかの一句。「『涼し』という言葉の中には大小無数の鈴があって響き交わしている感がある」とコメントして、自句「瀧のうち大鈴小鈴あり涼し」を掲げている。「澤」(2015年7月号)所載。(八木忠栄)


July 2872015

 ゴム毬に臍といふもの草いきれ

                           大島英昭

うそう確かに空気を入れる部位をおヘソと呼んでいた。弾みが悪くなればここから自転車の空気入れなどを使って空気を入れるのだが、微妙な具合が分からないとカチンカチンになってしまう。弾みすぎるようになるとかえって勝手が変わって使いづらかった。少女にとってゴム毬はお気に入りの人形と同等の愛情を傾ける。掲句では草いきれが、彼女たちの熱い吐息にも重なり、ゴム毬に注ぐ情熱にも思える。弾みすぎるゴム毬もそのうち空気が抜けてまた手になじむようになる。英語だとball valve(ボール・バルブ)。工具じゃあるまいし、なんとも味気ない。身近な道具のひとつひとつを慈しみ深く見つめているような日本語をあらためて愛おしく思う。『花はこべ』(2015)所収。(土肥あき子)


July 2772015

 背泳ぎにしんとながるる鷹一つ

                           矢島渚男

っと日常意識から切り離される時間。そこでは忘我の境というのか、自分がいったい世界のどのあたりにいるのかなど、全てが静かな時間のなかに溶け込んでしまう。このようないわば「聖」なる時間は、宗教的なそれとも違って、当人が予期しないままに姿を現す。偶然といえば偶然。こうした情況は、誰の身辺にも身近に起きるようだ。そんな時間を、たとえば石川啄木は次のように詠んでいる。「不来方の お城の草に寝転びて 空に吸はれし十五の心」。いかにも啄木らしい味付けはなされているものの、これもまた偶然に得られた「聖」なる時間のことだ。当人には何の意図もないのに、世界の側がさっと差し出したてのひらに、否も応もなくすくいあげられてしまうような至福の刻。句で言えば、上空の鷹はそんな時間への案内人だ。なんという不思議さ。とも感じないやわらかな神秘の刻。ながれる鷹を追う目は、無我のまなざしである。私自身にも、このような体験はある。中学生のころ、学校帰りにひとり寝ころんだ山の中腹では、そんなときに、いつも郭公が鳴いていた。その後郭公の声を聞くたびに、私のどこかに、この「聖」なる時間が流れ出す。『天衣』所収。(清水哲男)




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