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July 2772015

 背泳ぎにしんとながるる鷹一つ

                           矢島渚男

っと日常意識から切り離される時間。そこでは忘我の境というのか、自分がいったい世界のどのあたりにいるのかなど、全てが静かな時間のなかに溶け込んでしまう。このようないわば「聖」なる時間は、宗教的なそれとも違って、当人が予期しないままに姿を現す。偶然といえば偶然。こうした情況は、誰の身辺にも身近に起きるようだ。そんな時間を、たとえば石川啄木は次のように詠んでいる。「不来方の お城の草に寝転びて 空に吸はれし十五の心」。いかにも啄木らしい味付けはなされているものの、これもまた偶然に得られた「聖」なる時間のことだ。当人には何の意図もないのに、世界の側がさっと差し出したてのひらに、否も応もなくすくいあげられてしまうような至福の刻。句で言えば、上空の鷹はそんな時間への案内人だ。なんという不思議さ。とも感じないやわらかな神秘の刻。ながれる鷹を追う目は、無我のまなざしである。私自身にも、このような体験はある。中学生のころ、学校帰りにひとり寝ころんだ山の中腹では、そんなときに、いつも郭公が鳴いていた。その後郭公の声を聞くたびに、私のどこかに、この「聖」なる時間が流れ出す。『天衣』所収。(清水哲男)


July 2672015

 汗ぬぐふ捕手のマスクの汗見ずや

                           水原秋桜子

瞬の動作です。捕手は、半袖のユニフォームの袖口で、額の汗をぬぐいます。しかし、キャッチャーマスクにべとついている汗を拭くことはせず、すぐさまマスクを被ります。たぶん、高校野球でしょう。今年もプロ野球を一度、高校野球の予選を一度観戦しましたが、両者の大きな違いの一つに、試合時間の長さがあります。プロ野球の平均試合時間は3時間を超えますが、高校野球は2時間程度です。これは、一球場で一日3試合を消化しなければならないからですが、試合中は主審がタイムキーパーとなり、球児たちは貴重な時間を無駄にしないように機敏に動きます。かつては、バッターアウトのたびに内野がボールを回してからピッチャーに返球していましたが、げんざい、それは行われていません。先日、都予選を府中球場で観たかぎりでは、捕手がマスクを外す回数も非常に少なく、守備中に一度もマスクを外さない捕手もいました。さて、掲句の捕手の場合はどうだったのでしょうか。捕手がマスクを外すのは、ランナーに出られたつかの間です。暑さから出る汗と、焦りの汗が吹き出ることもあるでしょう。その汗を袖口でぬぐうけれど、マスクについている汗は拭き取らない。地味にかっこいい。一高野球部の三塁手だった作者は、ここを見逃さなかった。なお、掲句は「浮葉抄」(昭和12)所収なので、戦前の句ですが、今と変わらない捕手のひたむきな姿を伝えています。「水原秋桜子全句集」(1980)所収。(小笠原高志)


July 2572015

 見てをれば星見えてゐる大暑かな

                           対中いずみ

年、二十四節気の大暑は二十三日の木曜日だった。村上鬼城に〈念力のゆるめば死ぬる大暑かな〉の句があるが、しばらくは続くであろう極暑の日々を思うとまさに実感、という気がしてくる。鬼城句に対して掲出句は、もう少しゆるりとした大暑の実感だ。夕暮れ時となればさすがに暑さもややおさまって、窓を開けて空を仰ごうという気も起きる。そんな時、初めは何も見えないけれどそのうちに目が慣れてぽつりぽつりと星が見えてくる、という経験は誰にもあるはずだが、見えてゐる、によってまさに、いつのまにか、という感覚が巧みに表現されている。そして、ああ本当に今日も暑かった、とさらにぼんやりと空を見続けてしまうのだろう。『巣箱』(2012)所収。(今井肖子)




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