2015N722句(前日までの二句を含む)

July 2272015

 吾妹子も古びにけりな茄子汁

                           尾崎紅葉

書に「対膳嘲妻」とあるから、食膳で妻と向き合って、妻が作った茄子汁を食べながら、おれも年をとったけれど、若かった妻も年をとってしまったなあ、と嘲る気持ちが今さらのように働いている。「吾妹子」として妻に対する親愛の気持ちがこめられているから、そこに軽い自嘲が読みとれる。古女房が作る味噌汁は腕が上がってきて、以前よりずっとおいしくなっている。そのことに改めて気づいたのである。悪意や過剰な愛は微塵もない。これまでの道のりは両者いろいろあったわけだろうけれど、この場合、さりげなくありふれた夏の茄子汁だからいい。たとえば泥鰌汁や鯨汁では、重たくしつこくていけない。古びてさらりとした夫婦の「対膳」である。今の季節、水茄子、丸茄子、巾着茄子など、いろいろと味わいが楽しめる茄子が出まわるのがうれしい。唐突だが、西脇順三郎の「茄子」という詩に素敵なフレーズがある。「人間の生涯は/茄子のふくらみに写っている」と。凄い!「茄子のふくらみ」にそっと写るような生涯でありたいものだと願う。紅葉の他の句に「一人酌んで頻りに寂し壁の秋」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 2172015

 空中で漕ぎし自転車雲の峰

                           中嶋陽子

ダルを漕ぐ姿勢は常に地から足が離れているという事実。普段気にとめない日常の動作が、実は空中で行っているものだと気づいたとき、ものすごい芸当であるような感覚が生まれる。そういえば、かつて自転車から補助輪を外したときの喜びは途方もないものだった。大人と同じであることが大きな自信につながっていた。実際、徒歩しかなかった行動範囲がずっと自由に大きく広がった瞬間だった。むくむくと盛り上がる入道雲に「こっちへおいで」と手招きされ、どこまでも行けるような晴れ晴れした心地をあらためて思い出す。〈山の神海の神ゐて風薫る〉〈短夜の声変へて子に読み聞かす〉『一本道』(2015)所収。(土肥あき子)


July 2072015

 鍬かつぎ踊の灯へと帰りゆく

                           中山世一

踊の灯。田舎の夜にとっては、特別な灯だ。普段は暮れてくると、漆黒の闇が訪れる。が、踊の夜だけは違う。多くは小学校などの広い土地が選ばれるが、今宵は灯が灯されて、暗闇に慣れた目には異常なほどに明るく写る。そんな灯を目指すかのように、仕事を終えた農夫が畑から帰ってくる。彼らが足早になるのは、単に踊の輪に加わりたいからではない。盆踊りが楽しみなのは、この行事のために久しぶりに帰郷してきた知人や友人の顔が見られるからだ。盆踊りの夜には、あちこちで再会の喜びの声が聞こえる。私も田舎に帰っていたころには、踊よりもこれらの邂逅のほうが数倍も楽しみだった。盆踊りは深夜に及ぶが、参加者には束の間くらいにしか感じられない。夢のような夜だと言ってもよい。明日になれば、また一年間会えぬ顔である。鍬をかつぐ肩に弾みがつくのも無理からぬ所以だ。『草つらら』(2015)所収。(清水哲男)




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