2015N719句(前日までの二句を含む)

July 1972015

 毒死列島身悶えしつつ野辺の花

                           石牟礼道子

月12日の夜は、大分で地震がありました。今月に入って、根室で震度3、盛岡で震度5弱、栃木でも震度4など、列島は揺れています。これに加えて、口永良部島の噴火や、箱根、浅間山、昨年は木曽の御嶽山の惨事がありました。霧島では、火山性地震が急増している一方で、同じ鹿児島県の川内原発1号機では、原子炉に核燃料を搬入する作業が完了しました。他の誰でもない石牟礼道子氏が「毒死列島」という言葉を句にするとき、それは誇張ではない実質を伝えます。「身悶え」という言葉も同様に、日本人の営みは、この土地とじかにつながっていて、この土地の身内として自身の営みを続けてきた実感を伝えています。以下、句集の解説から、上野千鶴子氏との対話を抜粋します。「3.11のときに何を感じられたのですか。」「あとが大変だ、水俣のようになっていくに違いないって、すぐそう思いました。」「水俣と同じことが福島でも起こる、と。」「起こるでしょう。また棄てるのかと思いました。この国は塵芥のように人間を棄てる。役に立たなくなった人たちもまだ役に立つ人たちも、棄てることを最初から勘定に入れている。役に立たない人っていないですよね。ものは言えなくても、手がかなわなくても、そこにいるだけで人には意味がある。なのに『棄却』なんて言葉で、棄てるんです。」「人間がやることは、この先もあんまりよくなる可能性はないですか。」「あまりない。いや、いいこともあります。人間にも草にも花が咲く。徒花(あだばな)もありますけど。小さな雑草の花でもいいんです。花が咲く。花を咲かせて、自然に返って、次の世代に花の香りを残して。」『石牟礼道子全句集 泣きなが原』(2015)所収。(小笠原高志)


July 1872015

 パラソルの精一ぱいの陰つくる

                           豊田いし子

ルは太陽、パラソルは太陽から身を守るという意味だといい、日傘の傍題となっているが、この句のパラソルは砂日傘、ビーチパラソルを思わせる。それも、込み合った砂浜にところせましと立ち並んでいるのではなく、広々とした砂浜に一本だけ、少し傾き立っているビーチパラソル。白い砂の上にパラソルが作るくっきりとした八角形は、一面の光の風景の中のただ一つの影であり陰である。決して大きくはないその陰を作るだけのためにそこにあるパラソル、心象風景のような一枚の絵が浮かんでくる。先日、海水浴場の光景をテレビで見たが、砂浜にはパラソルならぬテントが並んでいた。昨今の異常な日差しにはこの方が合理的ではあるが、精一ぱいという健気さはないだろう。『曙』(2015)所収。(今井肖子)


July 1772015

 みづうみは光の器夏つばめ

                           比田誠子

段から湖畔に住む人は別として、湖へは避暑に行く場合が多い。湖畔のキャンプやロッジでの宿泊は一夏のバケーションの良き思い出となる。ボートや水遊び釣りなどで楽しき時を過ごす。青春の乙女らが歌声高らかに通り過ぎて行く。来し方行く末に馳せる思念もいつしか茫々と景色の中に消滅してゆく。そんな至福の時の中でふと眼前を眺めれば、きらきらとした光の反射の中を燕がすいすいと飛んでいる。眼前の湖水も眺めている内に圧倒的に輝く光の固まりとなってゆく。何を見ても今は眩しい。眩しい湖水を前に佇めばなるほど湖は光りの器かも知れぬ。その中を切れ味良く横切ってゆく黒い一線は燕である。現実の中の非日常。非日常の心の安らぎと眩しさ、そっくりと記憶の器へぽいと放り込んで持帰ろう。<うぐひすや創刊号を発送す><囀へ大道芸の荷をおろす><海光に飾り冑の朱房かな>が所載されている。『朱房』(2004)所載。(藤嶋 務)




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