2015N717句(前日までの二句を含む)

July 1772015

 みづうみは光の器夏つばめ

                           比田誠子

段から湖畔に住む人は別として、湖へは避暑に行く場合が多い。湖畔のキャンプやロッジでの宿泊は一夏のバケーションの良き思い出となる。ボートや水遊び釣りなどで楽しき時を過ごす。青春の乙女らが歌声高らかに通り過ぎて行く。来し方行く末に馳せる思念もいつしか茫々と景色の中に消滅してゆく。そんな至福の時の中でふと眼前を眺めれば、きらきらとした光の反射の中を燕がすいすいと飛んでいる。眼前の湖水も眺めている内に圧倒的に輝く光の固まりとなってゆく。何を見ても今は眩しい。眩しい湖水を前に佇めばなるほど湖は光りの器かも知れぬ。その中を切れ味良く横切ってゆく黒い一線は燕である。現実の中の非日常。非日常の心の安らぎと眩しさ、そっくりと記憶の器へぽいと放り込んで持帰ろう。<うぐひすや創刊号を発送す><囀へ大道芸の荷をおろす><海光に飾り冑の朱房かな>が所載されている。『朱房』(2004)所載。(藤嶋 務)


July 1672015

 空はまだ薄目を開けて蚊喰鳥

                           村上鞆彦

の夕暮れは長い。日差しが傾き、炎熱に抑えられていた風が心地よく吹き始め、戸外で夕涼みをするには一番の時間帯だ。夕焼雲と藍色がかった空がグラデーションを描く。暗くなりそうでならない、薄明の暮時でもある。その様子を「空はまだ薄目を開けて」と言い取ったところが魅力的だ。蚊喰鳥、こうもりが飛び始めるのもそんな時間帯。「薄目」はほとんど見えているかどうかわからないこうもりの目の表情も連想させる。この頃めっきりこうもりを見なくなったと思っていたが、先月琵琶湖畔に盛んに飛び回っているのを見た。かはほりは「川守」に通じるというので、水辺に多いのだろうか。飛び交う蝙蝠と暮れていく夏の宵を存分に楽しんだ、そのことが掲句を読んで鮮やかに蘇った。『遅日の岸』(2015)所収。(三宅やよい)


July 1572015

 雲の峯見る見る雲を吐かんとす

                           寺田寅彦

空にぐんぐん盛りあがってゆく雲の峯は、まさに「見る見る」その姿を変えてしまう。まるで生きもののようである。見ていて飽きることがない。ダイナミックに刻々と姿を変えてゆくさまは、「雲を吐」くように見えたり、噴きあげるように見えたり、動物など生きものの姿にそっくりに見えたりして、見飽きることがない。雲が雲を吐くととらえた、そのときの様子が目に見えるようである。何年か前、わが家の愛犬が死んで遺骨にしての帰路、春の空前方に浮かんだ雲が、走る愛犬の姿そっくりに見えて感激したことがあった。寅彦は俳句を漱石に熱心に師事したけれども、句集は出していない。俳号は寅日子。しかし、「俳句の本質的概論」や「俳句の精神」「俳諧瑣談」の他、俳句に関する論文はさすがにいくつかある。他に「涼しさの心太とや凝りけらし」「曼珠沙華二三本馬頭観世音」などの句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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