2015N715句(前日までの二句を含む)

July 1572015

 雲の峯見る見る雲を吐かんとす

                           寺田寅彦

空にぐんぐん盛りあがってゆく雲の峯は、まさに「見る見る」その姿を変えてしまう。まるで生きもののようである。見ていて飽きることがない。ダイナミックに刻々と姿を変えてゆくさまは、「雲を吐」くように見えたり、噴きあげるように見えたり、動物など生きものの姿にそっくりに見えたりして、見飽きることがない。雲が雲を吐くととらえた、そのときの様子が目に見えるようである。何年か前、わが家の愛犬が死んで遺骨にしての帰路、春の空前方に浮かんだ雲が、走る愛犬の姿そっくりに見えて感激したことがあった。寅彦は俳句を漱石に熱心に師事したけれども、句集は出していない。俳号は寅日子。しかし、「俳句の本質的概論」や「俳句の精神」「俳諧瑣談」の他、俳句に関する論文はさすがにいくつかある。他に「涼しさの心太とや凝りけらし」「曼珠沙華二三本馬頭観世音」などの句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 1472015

 扇風機うしろ寂しき形して

                           伊藤庄平

本に初めて輸入された電気扇風機は1893(明治26)年。スイッチひとつで風が送られる装置は蒸し暑い夏にどれほどありがたかったことだろう。クーラーに圧倒されながらも、現代でも羽根のないタイプなど新機種が登場する。しかし、掲句で描かれる扇風機は新型とはほど遠い昔ながらの扇風機だ。しかも、おしゃべりになった今どきの家電は、お風呂は「沸きました」と知らせ、電話は「着信一件です」と報告するなかで、扇風機は今も昔もひたすら寡黙を通している。風を送り続けるということが「作業」というより「労働」を感じさせるからだろうか。振り続ける首筋にそこはかとない哀愁が漂う。〈入日より取り出すやうに林檎捥ぐ〉〈母子草その名を知りてより折らず〉『初蝶』(2015)所収。(土肥あき子)


July 1372015

 花合歓に水車がはこぶ日暮あり

                           鈴木蚊都夫

に描いたような句だが、合歓の花の美しさを描して過不足がない。私の個人的な美観がそういわしめるのかもしれないが、合歓の花の美しさはこのように現れる。日の長い夏の夕方に咲く花だからだろうか。合歓に魅せられたのは、中学一年ころだったと思う。学校からの帰り道、まだ家まで遠い小川のほとりに一群れの合歓が自生していて、この季節にそれを見るのが楽しみだった。静かな小川の流れに合歓の花はしっとりと、しかしゴージャスな風情で咲いており、いつも立ち止まっては見つめたものだった。思えば中学生が花を眺めてうっとりしている図は珍妙に見えただろうが、あれはいったい何だったのだろう。いずれにしてもこの句は、美々しすぎるほどに美々しいが、「それがどうしたの」と言いたい気持ちが私にはある。そういえば、最近合歓の花を見たことがない。東京のどこかに咲いていないだろうか、ご存知の方にご教示を乞いたい。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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