まあしかし、よく降りますねえ。(哲




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July 0872015

 肩先でジャズ高鳴るや夏の渓

                           中上哲夫

ャズと中上哲夫とは切っても切れない仲である。それはある意味で羨ましいことだし、ある意味で不幸なことでもあろう。「夏、丹沢にて」と題して俳句雑誌に発表(1994)された七句のうちの一句である。親しい詩人たちと渓流釣りに行ったときの句だ。すがすがしい渓流に行ってまで、ジャズが現実に彼の心のなかでか高鳴っている、という状態は幸せと言えば幸せ、不幸と言えば不幸なことではないか。「釣りに集中しなさい!」と言ってやりたくなる。(そういう私は釣りはやらないのだが…。)静かな友人や騒々しい友人たちと一緒に渓流で釣糸を垂れている至福のとき(?)。そんなときに高鳴るジャズ。果たしてそんなときの釣果は? 彼の詩集『ジャズ・エイジ』(2012)に「ーーなんでジャズなんかやるの?/ーー自由になれるからよ/サックスを吹いていると/背中に羽根が生えてくるのよ」という素敵なフレーズがある。それを「ーーなんでジャズなんか聴くの?」と置き替えてみよう。きっと「背中」ではなく「肩先にジャズの羽根」が生えてくるのだろう。新刊の現代詩文庫『中上哲夫詩集』(2015)には、掲出句をはじめ64句が収められている。その勇気を素直に讃えよう。(八木忠栄)


July 0772015

 べうべうと啼きて銀河の濃くありぬ

                           小林すみれ

うべう(びょうびょう)は江戸期まで使われていた犬の鳴き声。動物や鳥の鳴き声の擬音は国により様々だが、時代によっても異なる。現在使われる「ワン」は従順で快活な飼い犬の声にふさわしく、「びょう」は野犬が喉を細くして遠吠えする姿が浮かぶ。今夜は七夕。天の川に年に一度だけカササギの橋がかかり、織り姫と彦星の逢瀬が叶う。このたびあれこれ調べるなかで「彦星」が「犬飼星」の和名を持つことを知った。今夜聞こえる遠吠えはすべて、いにしえの主人を慕う忠犬たちのエールにも思えてくる。〈開けられぬ抽斗ひとつ天の川〉〈バレンタインデー父をはげます日となりぬ〉『星のなまへ』(2015)所収。(土肥あき子)


July 0672015

 涼しさは葉を打ちそめし雨の音

                           矢島渚男

が子供だったころには、降り出せば屋根にあたるわずかな雨の音からも、それがわかった。でも、いまでは部屋の構造そのものが外の雨音を遮断するようにできているので、よほど激しい降りででもないかぎりは、窓を開けてみないと降っていることを確認できない。これを住環境の進歩と言えば進歩ではあるけれど、味気ないと言えばずいぶんと味気なくなってきたものだ。もっともたとえば江戸期の人などに言わせれば、大正昭和の屋根にあたる雨音なども、やはり味気ないということになってしまうのだろうが……。そんななかにあっても、「葉を打つ雨音」など、おたがいに自然の営みだけがたてる音などはどうであろうか。それを窓越しに聞くのでなければ、これは大昔から不変の音と言ってよいだろう。昔の人と同じように聞き、揚句のように同じ涼しさを感じることができているはずである。芭蕉の聞いた雨音も、これとまったく変わってはいないのだ。と、思うと、読者の心は大きく自由になり、この表現はそのまま、また読者のものになる。『百済野』所収。(清水哲男)




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