増俳は今日から20年目に。あと1年で終了予定ですが、詳しくはまた。(哲




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July 0172015

 夏を病む静脈に川の音を聞く

                           岸田今日子

だから半袖の薄い部屋着で臥せっているのだろう。病んで白っぽくなってしまった自分の腕をよくよく見ると、静脈が透けて見えるようだ。そこを流れる血の音までが、頼りなくかすかに聞こえてくるようでさえある。病む人の気の弱りも感じられる。静脈の流れを「川の音」と聞いたところに、この句の繊細な生命が感じられるし、繊細にとがった神経が同時に感じられて、思わずしんとしてしまう。身は病んでも、血は淀んでいるわけではなく生きて音たてて流れている。今さらながら、女性特有の細やかさには驚くばかりである。今日子は童話やエッセイ、小説にも才能を発揮した女優。俳号を「眠女」と名乗り、冨士眞奈美や吉行和子らが俳句仲間であった。三人はよく旅もした仲良しだった。昔あるとき、父國士が言い出して家族句会が始まった。そのとき一等賞に輝いたのが、今日子の句「黒猫の影は動かず紅葉散る」だったという。他に「春雨を髪に含みて人と逢う」がある。いずれも独自な世界がひそんでいる。内藤好之『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)


June 3062015

 形代のたぶん男の沈みをり

                           舟まどひ

日6月の晦日は夏越しの祓い。一年のちょうど真ん中にあたる日に前半期の罪や穢れを祓い、後半期の無病息災を祈願する昔ながらの風習。なにごとも半分あたりになると気を抜きやすくなりがちでもあり、大きな節目なのである。形代(かたしろ)は人の形をした紙に名前と年齢を書き、息を吹きかけたりしたのち、川などに流す。身代わりとなっている以上、分身として行方が気になる。早々に沈んだからどうかというものではないが、罪が重いほど早く沈んでしまうようにも思われる。作者が目にしているのは「たぶん」からして、複数の形代を流している。同じかたちでもう文字も見えるはずもなく、どれが自身のものかは分からないが、ここで即座にあれはおそらく男のものだと得心している。この無邪気で健やかな視線の持ち主に、のこり半年も幸多かれと願わずにはいられない。『これがかうなる』(2013)所収。(土肥あき子)


June 2962015

 僕が訛って冷し中華を食う獏なり

                           原子公平

人かで昼下がりの食堂に入る。それぞれが注文していく過程で、「ぼくは冷し中華」と言うべきところを、「ばくは冷やし…」と訛ってしまった。「ぼくは」と「ばくは」のわずかな差異。その場にいた仲間は、別に気にもせずに、あるいは気がつかずに、別の話をしている。ところが、作者はひとりそのことを気に病んでいる。最近、そうしたちょっとした言い間違いが多いからだ。トシのせいかなと気に病み、やっぱりそうだろうなと自己納得している。言い間違いに限らず、老人の域にさしかかってくると、そんな些細な間違いが気になって仕方がない。運ばれてきた冷し中華に箸をはこびながら、「ぼく」と「ばく」、「僕」と「獏」か。となればさしずめ今の俺は夢を食う「獏」のように冷し中華を食っているわけだ…。その場の誰も気づいてはいないけれど、俺だけは半ば夢のなかで食事をしていることになる。そう思えば、ひとりでに笑えてくるのでもあり、逆に切ない気持ちのなかに沈み込むようでもある。『夢明り』(2001)所収。(清水哲男)




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