五月もあと一週間。だんだん梅雨がしのびよってくる。(哲




2015ソスN5ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2452015

 女老い仏顔して牡丹見る

                           鈴木真砂女

丹は、中国では「花王」と呼ばれました。平安時代の和歌では、音読みする漢語の使用を禁じていたため「深見草」の和名で詠まれています。真砂女もこの呼び名を知っていたはずなので、少し深読みしてみます。牡丹の花の色は、紅、淡紅、紫、白、黄、絞りなど多彩です。真砂女は何色の牡丹を見ていたのか。これは、読み手にゆだねられるところでしょう。私は、白の絞りかなと思います。たいした根拠はありませんが、「仏顔して」いるので、色彩はおだやかだろうと思うからです。掲句を上五から素直 に読むと、女である私が年老いて、それは女という性を脱した仏顔になって、しみじみと牡丹を見ている、となります。しかし、これは通り一遍の読み方です。もっと牡丹を凝視してもいいのではないでしょうか。問題は、どれくらいの時間をかけて牡丹を見ていたかです。花一輪を五分間見る。写生をする人ならば、これくらいの時間はかけるでしょう。あるいは、牡丹園を歩いたならば、小一時間かけて多彩な色の牡丹を見たことでしょう。いずれにしても、深見草という和名が念頭にあれば、牡丹の花を凝視したはずです。そして、その視線の奥には、雄蕊と雌蕊、花の生殖器官があります。その時、その視線は作者に跳ね返ってきて、老いた仏顔には、はるか昔日の修羅が内包されていることに気づかされま す。花王のような女盛りの昔日は、束の間、仏顔を崩すかもしれません。なお句集では、「牡丹くづる女が帯を解くごとく」と続きます。こちらの牡丹は紅色でしょう。『紫木蓮』(1998)所収。(小笠原高志)


May 2352015

 緑蔭に赤子一粒おかれたり

                           沢木欣一

の句の話をちょっとしてみたら、え、一粒ってドロップじゃあるまいし、という人あり、いやでも一粒種って言うじゃないですか、という人あり、それはちょっと違う気も。しかしやはり、一粒、が印象的な句なのだろう。一読した時は確かに、赤子一粒、という思い切った表現が緑蔭の心地よさと赤ん坊のかわいらしさを際立たせていると感じたが、何度か読み下すと、たり、が上手いなと思えてくる。おかれあり、だと目の前にいる感じで、一粒、と表現するには赤ん坊の像がはっきりしすぎるだろう。おかれたり、としたことで景色が広がり、大きい緑陰の涼しさが強調される。『沢木欣一 自選三百句』(1991)所収。(今井肖子)


May 2252015

 雀のあたたかさを握るはなしてやる

                           尾崎放哉

かの拍子で雀が地に落ちて人の手に拾われる事がある。孤独の境地に生きる放哉も雀のを拾ってしまう。そして手のひらに温め愛しんだ。親鳥がどこか近くで鳴き騒いでいる。生き延びるには彼らの元へ送りかえさねばならぬ。名残惜しいがそっと放してあげた。お帰り、君の世界へ。人家近くに暮す雀は繁殖期になると屋根の瓦の隙間、壁の穴などに巣を作る。子が生まれ餌運びに親鳥が忙しく巣を出入りする。孵化した雛は最初は眼も開かず羽も生えていないが、15日ほどでもう巣立ってゆく。順調にゆくものもあれば落伍するものもあり、人間と同じである。他に<わが顔ぶらさげてあやまりにゆく><たまらなく笑ひこける声若い声よ><風に吹きとばされた紙が白くて一枚>などが身に沁みた。村上譲編『尾崎放哉全句集』(2008)所載。(藤嶋 務)




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