まだ五月だというのに台風。被害がでませんように。(哲




2015ソスN5ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1252015

 初夏の木々それぞれの名の眩し

                           村上鞆彦

夏の日差しは、新緑を健やかに育み、木々は喜びに輝いているかのように光りを放つ。日に透けるような頼りない若葉たちも、日ごとに緑を深め、すっかりそれらしいかたちを得て、力強い影を落としている。掲句に触れ、街路樹に並ぶ初夏の木の名を確認しながら歩いてみた。鈴懸(すずかけ)、欅(けやき)、花水木(はなみずき)。鈴懸は鈴玉のような実をつけることから付いた名。秋には空にたくさんの鈴を降らせる。欅の「けや」は際立って美しいの意の「けやけし」に通じている。花水木は、根から水を吸い上げる力が強いことから水木。どの名も人間との深い付き合いから付けられたものだ。その名に胸を張るように木々を渡る風が薫る。『遅日の岸』(2015)所収。(土肥あき子)


May 1152015

 夕暮はたたみものして沙羅の花

                           矢島渚男

の「沙羅の花」は夏椿の別称であり、朝咲いて夕には散ってしまうことから、私たちのはかない心情とともに歌われてきた。冬の椿の花の命も短いけれど、万象が燃え立つ季節に咲く花だけに、夏椿のはかない命は際立つのである。句は、日常の感受の心のなかにふっと生まれ落ちる「一過性の気分」を巧みに捉えている。一日の終りの手作業は、いつものように取り込んだ洗濯物をたたむことなのだが、そのようなルーティンワークのなかで、たまさか言いようのない淡い感情の波に襲われることがある。たたみものをしながら、ふっと目をやった庭先に、沙羅の白い花がぼんやりと見えたのだろう。こういうときには、むしろ花の命の短さなどという観念は思いに入ってこないものである。ちらと目がとらえた花の「そのままのありよう」が、どことなく自分の現在のありようを抒情しているかのように思えたのだった。『翼の上に』所収。(清水哲男)


May 1052015

 用もなき母の電話や柿の花

                           荻原正三

間の関係の中でも、息子と母親との関係は特別です。胎児として母体の中にいるときは、完全な従属関係にあります。誕生後の一年間もほぼそれに等しく、保育園や幼稚園に通うようになって、少しずつ外の人間関係をもてるようになっていきますが、小学校に上がる頃までは、おおむね、母親に従属していたい願望は強いものです。ところが、息子が思春期を迎え、青年、成人、老人と年齢を重ねるにしたがって、母親を一個の他者として見ていくようになります。その関係性は母親に対する呼称に 顕著に表れていて、私の場合は、「ママ、和子さん、おふくろ、おふくろさん」。ちなみに父親の場合は、「パパ、おやじっこ、おやじ、おやじさん」。こう振り返ると、思春期の親子関係は揺らいでいたんですね。「おふくろさん、おやじさん」と「さん」づけできるようになって、ようやく親子関係もふつうの人間関係に伍するものになってきたようです。私の場合「ママ、パパ」から始まったので「さん」づけできるようになるまでに二十年以上かかりました。幼少の頃、甘えん坊だった息子は、思春期には従属関係を脱して、対等な人間関係を目指すようになりました。さて、掲句は作者六十歳前後の作品で、切れ字の「や」には軽い嘆きがあり、共感します。おおむね母親は用もない電話をする存在で、こ ちらが忙しいときは甚だ迷惑です。母親がもっている息子像は、胎児であったときの記憶をふくんで理想化されているのに対し、息子がもつ母親像は、理想から出発しているゆえにしぼんでいくしかない面があります。だから、息子が齢を重ねるほどに、反りが合わなくなる場合もでてくるのでしょう。もちろん、世間には、大野一雄や永田耕衣のように生涯にわたって母を慕いつづけた息子もたくさんいます。われわれを一般的と思ってはいけません。ところで、下五を「柿の花」で終えているのも侘しい気がします。柿の花は黄白色の壺型で、葉の陰から地面に向けてうつむくように咲きます。俳人でもなければ、この花に心を寄せる人は少ないでしょう。しかし、この花があればこそ秋には柿が実ります。そう 考えると母の日の今日、おふくろさんありがとう。『花篝』(2008)所収。(小笠原高志)




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