やることなすことウマくいかない阪神。野球は人生に似ている…。(哲




2015ソスN5ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1152015

 夕暮はたたみものして沙羅の花

                           矢島渚男

の「沙羅の花」は夏椿の別称であり、朝咲いて夕には散ってしまうことから、私たちのはかない心情とともに歌われてきた。冬の椿の花の命も短いけれど、万象が燃え立つ季節に咲く花だけに、夏椿のはかない命は際立つのである。句は、日常の感受の心のなかにふっと生まれ落ちる「一過性の気分」を巧みに捉えている。一日の終りの手作業は、いつものように取り込んだ洗濯物をたたむことなのだが、そのようなルーティンワークのなかで、たまさか言いようのない淡い感情の波に襲われることがある。たたみものをしながら、ふっと目をやった庭先に、沙羅の白い花がぼんやりと見えたのだろう。こういうときには、むしろ花の命の短さなどという観念は思いに入ってこないものである。ちらと目がとらえた花の「そのままのありよう」が、どことなく自分の現在のありようを抒情しているかのように思えたのだった。『翼の上に』所収。(清水哲男)


May 1052015

 用もなき母の電話や柿の花

                           荻原正三

間の関係の中でも、息子と母親との関係は特別です。胎児として母体の中にいるときは、完全な従属関係にあります。誕生後の一年間もほぼそれに等しく、保育園や幼稚園に通うようになって、少しずつ外の人間関係をもてるようになっていきますが、小学校に上がる頃までは、おおむね、母親に従属していたい願望は強いものです。ところが、息子が思春期を迎え、青年、成人、老人と年齢を重ねるにしたがって、母親を一個の他者として見ていくようになります。その関係性は母親に対する呼称に 顕著に表れていて、私の場合は、「ママ、和子さん、おふくろ、おふくろさん」。ちなみに父親の場合は、「パパ、おやじっこ、おやじ、おやじさん」。こう振り返ると、思春期の親子関係は揺らいでいたんですね。「おふくろさん、おやじさん」と「さん」づけできるようになって、ようやく親子関係もふつうの人間関係に伍するものになってきたようです。私の場合「ママ、パパ」から始まったので「さん」づけできるようになるまでに二十年以上かかりました。幼少の頃、甘えん坊だった息子は、思春期には従属関係を脱して、対等な人間関係を目指すようになりました。さて、掲句は作者六十歳前後の作品で、切れ字の「や」には軽い嘆きがあり、共感します。おおむね母親は用もない電話をする存在で、こ ちらが忙しいときは甚だ迷惑です。母親がもっている息子像は、胎児であったときの記憶をふくんで理想化されているのに対し、息子がもつ母親像は、理想から出発しているゆえにしぼんでいくしかない面があります。だから、息子が齢を重ねるほどに、反りが合わなくなる場合もでてくるのでしょう。もちろん、世間には、大野一雄や永田耕衣のように生涯にわたって母を慕いつづけた息子もたくさんいます。われわれを一般的と思ってはいけません。ところで、下五を「柿の花」で終えているのも侘しい気がします。柿の花は黄白色の壺型で、葉の陰から地面に向けてうつむくように咲きます。俳人でもなければ、この花に心を寄せる人は少ないでしょう。しかし、この花があればこそ秋には柿が実ります。そう 考えると母の日の今日、おふくろさんありがとう。『花篝』(2008)所収。(小笠原高志)


May 0952015

 薔薇咲くや生涯に割る皿の数

                           藤田直子

り乱れる薔薇の花弁から割れた皿の破片を思い浮かべるのと、割れてしまった皿の欠片を見た時そこに薔薇のはなびらが重なって見えるのとでは印象が異なるだろう。割れた皿の欠片からさえ、美しく散る薔薇を連想するという想像力と美意識が、この作者の凛とした句柄には似合っているのかもしれない。しかしまた、広い薔薇園で散り始めた無数ともいえる花弁の色彩やふくよかな香りの中にいながら、ふと硬く尖った陶器の破片が音を立てて散らばった一瞬を思う、というのも捨てがたい。いずれにせよ、生涯に割る、という一つの発見までの時間の経過を共有することで読み手も一歩踏み込むことができ、咲くや、により薔薇はなお生き生きと強い生命力を持ちそれが前を向いて進む作者の姿に重なる。『麗日』(2014)所収。(今井肖子)




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