「甍の波」も減ってきたが、「鯉幟」もあまり見かけなく……。(哲




2015ソスN5ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0552015

 乗り継いでバスや都電や子供の日

                           小圷健水

日こどもの日。古来より男児の健全な成長を祝う端午の節句だったが、1948年に「こどもの人格を重んじ、幸福をはかるとともに、母に感謝する日」として国民の祝日となった。掲句は目的地に行く手段というより、乗り物好きの子供へのサービスのように思われる。赤ん坊や子供の乗りもの好きは、絵本や玩具に、あらゆる乗りものグッズが充実していることに表れている。わけても男児にその傾向が強く、プラレールに夢中になり、ミニカーを集め、なかにはすべての電車の名前をそらんじてしまう子もいるほどだ。それは鮮やかな色やかたち、規則的な動きなどに新鮮な刺激を受けていると考えられている。わが子がバスや都電にはずむように乗り込む姿に、父はふと遠い記憶を重ねる。乗りもの好きをさかのぼれば、それは抱っこや肩車から始まっていることに気づき、いっそう愛おしく思われるのだ。句集には〈大皿に向きを揃へて柏餅〉や〈ざつくりと二つに切つて菖蒲風呂〉も。子供の日の香り立つような時間がおだやかに描かれる。『六丁目』(2015)所収。(土肥あき子)


May 0452015

 幾たりか我を過ぎゆき亦も夏

                           矢島渚男

にしみる句だ。そんな年齢に、私もさしかかってきたということだろう。「過ぎゆき」は、追うこともかなわぬ遠くの世界へ行ってしまうことであり、年を重ねるに従って、そうした友人知己の数が増えてくる。そしてもちろんそんなことには頓着なく、いつものように夏はめぐってくるわけだが、加齢につれてだんだん「亦も」の思いは濃くなってくる。季節の巡りを人間の一生になぞらえれば、夏は壮年期に当たる。すなわち、未だ生命の「過ぎゆく」時期ではない。春に芽吹いた命が堅実に充実し結実してゆく季節である。逆にだからこそ、過ぎていった者たちの生命のはかなさが余計にそれこそ身にしみて感じられるのであり、現実世界の非情が炎暑となって我が身をさいなむようにも思われたりするのだ。『百済野』所収。(清水哲男)


May 0352015

 ピアノは音のくらがり髪に星を沈め

                           林田紀音夫

髪のピアニストが、音の光を奏でています。十指で鍵盤を叩くと、それは88本の弦に響き、流線型の黒い木箱が共鳴するとき、音は深く混ざり合う。単純ではないその音色に、人は喜びや楽しさに加えて、切なさや鈍痛をも耳にします。「音のくらがり」のないところに、「星」をみることはできません。ロマン・ポランスキー監督作品に、「戦場のピアニスト」という映画がありました。ポーランドの国民的作曲家であったユダヤ人のシュピルマンは、第二次世界大戦のさなか弾圧と逃亡の日々を過ご しますが、隠れ家でひそかにピアノを弾いていたところをドイツの将校に見つかります。しかし、その音色が美しかったので、連行されずに生き延びます。当時、ワルシャワには30万人のユダヤ人がいた中で、生き残れたのは22人。シュピルマンは、その一人です。聞いたところによると、シュピルマンの息子は、日本人女性と結婚して、現在、日本の大学で日本の政治を研究しているそうです。今日は憲法記念日です。憲法が国家の倫理なら、それは積極的なアクセルを踏もうとする合理主義にブレーキをかけるはたらきでしょう。国家という乗り物に必要な装置は、アクセルではなくまず第一にブレーキです。倫理とは、いいことをする正義ではなく、いいことをしようとする積極的な正義に対して待ったをかける 落ち着いたおとなしさです。日本の憲法は、人類の歴史で初めて、大人の落ち着きを成文化しました。憲法記念日の今日、砲弾ではなく、ピアノの音が永続できる日であることを願います。『林田紀音夫全句集』(2006)所収。(小笠原高志)




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