日米首脳会談。みっともない「すり寄り」だけは止めてくれ。(哲




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April 2842015

 春たけなは卵のなかの血流も

                           秦 夕美

けなわとはものごとのもっとも盛んになった頂点ともいえるとき。春のたけなわは光りに満ちあふれ、万象の命の健やかさに満ちる。卵もまた、ひしめく命そのもの。そこに脈打つ血流も春の高まりとともに今まさに生まれんと息づいている。固い殻と親鳥に守られた卵の世界と比べ、外の世界は危険がいっぱいにも関わらず、小さな命は一刻も早く外に出ようとせっせと育つ。日に日に増す春の深まりとともに、かわいらしい鳴き声ももうすぐ聞こえてくるに違いない。〈うらゝけし一枚たりぬ魔除札〉〈朝川やあうらに春のひしめきて〉『五情』(2015)所収。(土肥あき子)


April 2742015

 臍の緒を家のどこかに春惜しむ

                           矢島渚男

句自解で、作者はこう書いている。「小さな桐の箱に入った自分の臍の緒を見たことがあった。たしかここだったと思って、もう一度探したが出てこない。どこかへいってしまったらしい。どうしたのだろう。そんな思いがあって浮んだ句だった」。私も、まったく同じ体験をしたことがある。母から臍の緒を見せられたのは、小学生のころだったが、その桐の箱は母が嫁入りのときに持ってきた桐の箪笥の小さな引き出しにしまわれていた。その箪笥は数度の引越しのたびに新居に納められ、いまでも実家の六畳間に健在だ。しかし、箪笥は健在だが、引き出しの臍の緒は忽然と姿を消していた。まるで春の霞か靄のように、いつしか霧消していたのだった。この句の「春惜しむ」も、そんな気分の表現なのだろう。『木蘭』所収。(清水哲男)


April 2642015

 いづかたも水行く途中春の暮

                           永田耕衣

は、水行く季節でもあったのですね。雪解けの水は、山から谷へ、谷から里へ流れて行きます。樹木、草花、農作物は、根から水を吸います。昆虫も魚も鳥も動物たちも、水行く季節になると捕食と生殖活動を活発化させていき、体液の循環も盛んになるでしょう。動植物を支えている大気から地表、地下水まで、水行く水量は増していきます。それは、暖かくなってきたからです。温度が上がると水の分子の運動も活発になる。当たり前ですね。そんな暮春の候の句ですが、ここからは、二つの見解が可能です。一つ目は、中七で切って読む場合です。森羅万象の活動は、人も含めて全て「途中」なのだという見解で、水行きには終点がないということです。水は循環している から常に「途中」です。 二つ目は、中七で切らない場合です。そうすると、「春の暮」が句の主眼になってきて、冬を過ぎて暮春になったから、水行きは活発なんだという見解になります。どちらを選ぶかは、各人の好みになるでしょうが、句から驚きを得られるのは、前者です。なぜなら、無常観を「途中」という俗語で言い表しているからです。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)




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