札幌でソメイヨシノが咲いた。今年の桜よ、何をそんなに急ぐんだ。(哲




2015ソスN4ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2342015

 たんぽぽを活けて一部屋だけの家

                           佐藤文香

ンポポは野原で明るい日差しを受けて輝く花、摘んできてもだんだん首を垂れてしぼんでしまう。例えば母親のために子どもがタンポポを摘んで、はいと渡す。渡された花はコップに挿されて母親の胸を暖かくする。たわむれに持ち帰るたんぽぽはそんな光景を想像させる。掲句では野の花を「活ける」、一部屋なのに「家」という言い回しに殺風景なアパートの一室を満たしている若さを感じる。「家」と呼ぶのは自分を同じ時間と空間を共有する相手があってこそのもの。そんな「君」との恋愛がこの句の下敷きにあるのだろう掲句が収められている句集には定型のリズムをはずれての句またがりをはじめ様々な試みが見られる。これなら短歌やほかの詩形でもと思わないでもないが、俳句でこそ詠むことでこの人独自の世界を築こうとしているのだろう。『君に目があり見開かれ』(2014)所収。(三宅やよい)


April 2242015

 早蕨よ疑問符のまま立ちつくせ

                           狩野敏也

どものころ蕗の薹の時季が終わると、すぐ薇や蕨採りに野へ山へと走りまわったものである。あの可愛くておいしそうな蕨の「拳のかたち」を、土の上に発見したときの喜びは格別だった。今でさえ時々夢に見るほどである。まさに「……早蕨の萌え出づる春になりにけるかも」である。蕨の季語には「早蕨」もあるが、「老蕨」もあるのが可笑しい。うっかりしていると、たちまち拳を開いてのさばってしまう。早蕨のかたちを「拳」とか「拳骨」と称するけれど、敏也は「疑問符」ととらえてみせた。そう言われれば、なるほど「疑問符」にも見えるし、「ゼンマイ」のようにも見える。「薇」は芥川龍之介の句に「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」があったなあ。ここでは蕨の形体にとどまらず、中七・下五は蕨に対して「成長とともに開いてしまうのではなく、いつまでも疑問符をもちつづけ、物事を簡単に了解するなよ」という作者の気持ちがこめられているように、私には思われる。これは早蕨を自分に見立てて、詩人が自分に対して「立ちつくせ!」と言っている、一つの姿勢なのではないか。そんなふうにも解釈したい。他に「譲ること多き日々衣被」がある。「花村花2015」(2015)所収。(八木忠栄)


April 2142015

 土を出てでんぐり返る春の水

                           森島裕雄

元の歳時記によると「春の水」とは、豊かであることが本意であるとされる。水が「でんぐり返る」ことで、勢いよく豊富な水量を思わせ、また春らしい瑞々しさを感じさせる。それはまるで、生まれたばかりの赤ん坊が誕生してすぐ大きな泣き声をあげるように、暗い地中を這っていた水が、春の日差しに触れたことで、喜びにもんどりうっているようにも見えるのだ。水が流れとして誕生する瞬間に立ち会っている感動に、作者もまた胸をおどらせながら春の水面を見つめているのだろう。〈筍ご飯涙のやうな味がして〉〈立ち乗りの少年入道雲に入る〉『みどり書房』(2015)所収。(土肥あき子)




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