鳥谷を3番に、阪神連敗脱出。胃が痛くなるような一週間だった。(哲




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April 1342015

 百歳の日もバスとまり蠅がたつか

                           竹中 宏

文的な意味での句意は明瞭だ。百歳になった日にも、バスはいまと同じように動き、蠅はたっているであろうか、と。それ以上の解釈はできない。だが、この句の面白さは、百歳になる日を作者は決して待ち望んだりしていないところにある。それがどこでわかるのかと言えば、いまと変わらぬ日常を指し示すものとして、「バス」と「蠅」を持ってきたところにあるだろう。「バス」と「蠅」はお互いに何の関連もないし、特別に作者の執着するものでもない。そのようなどうでもよろしい日常性を提示することで、作者にとっての「百歳」もまた、どうでもよろしい年齢となるわけだ。この二つの事項を、たとえば作者の愛着するものなどに置き換えてみると、そこで「百歳」は別の趣に生まれ変わり、そこまでは何とか生きたいという思いや、生きられそうもないことへの悲痛を訴える句に転化してしまう。そうしたことから振り返れば、句の「バス」も「蠅」もが、実は作者の周到な気配りのなかから選ばれた二項であることがわかるのだ。「バス」も「蠅」も、決して恣意的な選択ではないのであった。俳誌「翔臨」(第82号・2015年2月)所載。(清水哲男)


April 1242015

 奥山の風はさくらの声ならむ

                           飴山 實

を愛でる人は、桜を待ち、桜を見て、桜と別れます。花びらが散り終わったあとの萼(がく)の臙脂(えんじ)に満開の名残を見、葉桜になれば初夏を予感し始めます。中には、一度の別れでは満足できない人も居て、掲句の場合はそうなのかもしれません。平地では桜の盛りが過ぎても、山地に行けばまた桜に出会えます。山の奥の方から風が吹いてきて、それを桜の声なのかと感じています。しかし、強い風ではないようなので、花びらは届いていません。「奥山の風」は、おそらく山桜が放つ匂 いも届けてくれています。桜は見えていなくても、匂いから花の盛りの期待は高まります。「さくら」とひらがな表記しているところにも、やや官能的な匂いの気配を読みとります。なお、句集の配列から見て、「奥山」は吉野山と思われます。『飴山實全句集』(2003)所収。(小笠原高志)


April 1142015

 夕日には染まらぬ花の白さかな

                           長谷川槙子

開花前線は東北地方を北上中、東京は散り時に寒が戻ってやや潔さに欠けている。雨の中近所の公園に行くと、無数の落花が土に還ろうとしながら白く輝いていたが、この句の桜もそんなソメイヨシノだろう。そして、夕日の中にあって夕日の色に染まっているように見えている。しかしさらにじっと見ていると、桜の花の一つ一つが光をはね返し、その白さが際立っていると気付くのだ。自ら光を放っているような花の白、今を咲いて明日には散る桜を見上げつつ、花と心を通わせている作者なのだろう。『槙』(2011)所収。(今井肖子)




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