2015N324句(前日までの二句を含む)

March 2432015

 日のさくら月のさくらと咲きはじむ

                           鈴木多江子

年よりやや早いとの予想のなか、南から次々と開花宣言が続いている。これから、北海道釧路の満開予想5月15日まで、日本列島が今年の桜の彩られる。定点観測している近所の桜も、週末にはぎゅっと固くにぎりしめられたような蕾にピンクの嘴のようなほころびが見え始め、あとは日に夜にと咲き継ぐことだろう。朝に開き、一日の終わりにはしぼんでしまう花も多くあるなかで、昼の日差しに咲き、夜の月光に咲く桜はなんと奔放な花なのだろう。その自在さが、まるで日本列島を気ままに北上している旅人の足取りのようにも思えるのだ。桜はそんなことなどちっとも気にすることなく、今年も勝手に咲いて、勝手に散っていくのだろう。『花信』(1990)所収。(土肥あき子)


March 2332015

 日陰雪待伏せのごと残りをり

                           矢島渚男

の陽光が降り注ぐ道を気持ちよく歩いているうちに、その辺の角を曲がると、いきなり日陰に消え残った雪にぶち当たったりする。たいていは薄汚れている。そんなときの気持ちは人さまざまであろうが、私はなんだか腹立たしくなる。子供のときからだ。消え残った雪に何の責任もないとはわかっていても、むかっとくる。せっかくの春の気分が台無しになるような気がするからだ。このときに「待伏せのごと」という措辞は、私の気持ちを代弁してくれている。「待伏せ」という行為は、まず何を目論むにせよ、人の気持ちの裏をかき意表をつくことに主眼がある。しかも執念深く、春の陽気とは裏腹の陰険なふるまいである。だから、待伏せをされた側ははっとする。はっとして、それまでの気分をかき乱される。いやな気分に落しこまれる。「日陰雪」ごときで何を大げさなと言われるかもしれないが、句の「待伏せ」は、そんな大げさをも十分に許容する力を持っている。説得力がある。『延年』所収。(清水哲男)


March 2232015

 荒魂の陽の海に入る雪解川

                           飯田龍太

きなスケールの句です。春の太陽と海、そこに注ぐ雪解けの川。ますらをぶりの句です。「荒魂の」は枕詞で、「年・日・春」にかかります。掲句では「陽」にかかり、また、句全体である春の景にもかかっているでしょう。枕詞は、音楽でいえばイントロのような働きがあり、絵画でいえば、色や形のイメージをあらかじめ想起させるような働きがあります。万葉集の長歌で使われる場合、とくに人麻呂の長歌には朗唱性に弾みをつける働きもありました。掲句では、この三つの要素に加えて、意味性も考えら れます。つまり、「陽」も「海」も「荒魂」であるという意味です。「陽」は、四方八方に乱反射し、「海」は、うねり寄せ返す荒くれ者です。春になって日脚が伸び、海のうねりには輝きが交錯し、海中の生きものたちも活気を帯びてきます。山に積もっていた雪は、解け出して雪解川となり荒魂の陽の海に入ります。太陽の光と熱が冬を解かして春を弾かせています。spring!『山の木』(1975)所収。(小笠原高志)




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