マンションの大改装工事中。電気ドリルの音が響きわたって…。(哲




2015ソスN3ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1832015

 肩ならべ訪ふぶらんこの母校かな

                           柳家小三治

句では「ぶらんこ」は「ふらここ」「ふらんど」「鞦韆」「秋千」など傍題がいくつかある。その状況や句姿によって、さまざまな遣い方があるわけだ。小学校だろうか、何かの用があって友人と一緒に母校を訪ねたのだろう。単に訪ねたというだけでなく、その折に昔よく遊んだぶらんこが懐かしく、二人そろって乗ってみたときの情景である。その気持ちはいかにも「母校かな」(!)であろう。ところで、こんなことが数年前にあった。ーー四谷四丁目に、しっかりした木造の廃校になった校舎をそのまま活用して、区民の公共施設として今なお使われている大きな旧小学校がある。私が参加しているある句会は、ここで毎月開催されている。この旧小学校にかつて柳家小三治が学んでいたことを、何かで知った私は俳句もやっている小三治師に、その旨ハガキを出した。さっそく返事が来て「四谷第四小学校卒業生・柳家小三治」とあった。さすが落語家、シャレたものです。愉快! 但し、掲出句の「母校」が旧四谷第四小学校か否かはわからない。二期四年間務めた落語協会会長を昨年任期満了で退任された。他に「天上で柄杓打ち合う甘茶かな」がある。『五・七・五 句宴四十年』(2009)所載。(八木忠栄)


March 1732015

 春星へ回転木馬輪をほどく

                           対馬康子

遠に回り続ける回転木馬が、輪を解くことがあるとしたら。掲句はそんな想像から始まっている。春の夜にうっとりと灯る星空こそ、回転木馬たちの帰るところなのではないかと思う気持ちに強く共感する。先週、ピエロの句を鑑賞したが、回転木馬もまた楽しいような悲しいようなもののひとつである。日本最古の回転木馬は東京としまえんにある「カルーセルエルドラド」だという。1907年ドイツの名工によって作られ、ヨーロッパ各地を巡業したあと、アメリカのコニーアイランドの遊園地に渡り、1971年としまえんにやってきたという。100年の時を駆け続ける木馬の列に、うるんだ星のまたたきがやさしく手招いているように見えてくる。馬たちが春の空へと帰ってしまう前に、ひさしぶりに乗ってみたくなった。〈春の雲けもののかたちして笑う〉〈能面の目をすり抜けて蘖ゆる〉『竟鳴』(2014)所収。(土肥あき子)


March 1632015

 ものの芽の出揃ふ未来形ばかり

                           山田弘子

意は明瞭だ。なるほど「未来形ばかり」である。誰にでもわかる句だが、受け取り手の年代にによって、読後感はさまざまだろう。中学生くらいの読者であれば、あまりにも当たり前すぎて、ものたらないかもしれない。中年ならば、まだこの世界は微笑とともに受け入れることが可能だろう。だが、私などの後期高齢者ともなると、思いはなかなかに複雑だ。つまり、みずからの未来がおぼつかぬ者にとっては、ちょっと不機嫌にもなりそうな句であるからだ。「ものの芽」ばかりではなく、私たちは、日々こうした「未来形」の洪水のなかで生きているような気分であるからだ。考えてみれば、これは今にはじまったことではなく、いつの時代にも、人々は「未来形」ばかりに取り囲まれてきた。作句年齢は不明だが、作者はそこらあたりの人生の機微をよく承知していたのだと思う。「未来形」ばかりの世の中でひとり老いていくのは、人の常とはいえ、神も非情な細工をしてくださると言いたくもなる。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)




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