八木忠栄君が詩集『雪、おんおん』で、現代詩人賞受賞。(哲




2015N39句(前日までの二句を含む)

March 0932015

 嘘のような二十代あり風船売

                           壬生雅穂

い当たる。私の二十代もまた、「嘘のよう」であった。いや、作者や私に限らず、多くの人の二十代は嘘のようにあったのではなかろうか。子どもと大人との共存。そのこと自体が不思議すぎるけれど、その矛盾的存在が奇跡のように現実として動きまわっているのが二十代の人間だろう。希望と迷妄、期待と落胆、立志と虚言、純情と狡猾等々が、マグマのようにちっぽけな精神の坩堝で煮え立っている。それでいて、狂気には落ちなかった。そのことがまさに「嘘」のようではないか。作者は遊園地の風船売を瞥見しながら詠んでいるわけだが、句の感懐は風船売その人のものでもあり、作者自身のそれでもあり、また読者たちのそれでもあると思わせている。そんな二十代からははるかに遠くまできてしまった私などには、ほろ苦さを通り越して、まっすぐに肺腑を突いてくる一句のように受け取れる。俳誌「豆の木」(第18号・2014年4月刊)所載。(清水哲男)


March 0832015

 菜の花の風まぶしくて畔蛙

                           森 澄雄

蟄(けいちつ)を過ぎると、蛙は冬眠の穴から出てきます。しかし、散歩する人は、かなかな気づくことができません。鳴かず、跳ばず、不動の石のようにじっとしているからです。蛙は、穴から出てきたものの地上の生き方をすっかり忘れています。自分が跳べることも、鳴けることも忘れていて、その生を初めからやらなければなりません。私は若い一時期、蛙の観察に凝っていました。三月上旬に出会った一匹のヒキ蛙は、一歩を踏み出すまでに三十分ほどかけていました。舞踏に微足という超スロー歩行訓練がありますが、啓蟄の蛙は微足の師匠です。厳寒を越えた田んぼの畔(あぜ)は、枯れて灰白色の色あいですが、一日ごとに草の芽の緑もふえ、「畔青む」という晩春の季語もあります。掲句の畔には菜の花が咲いていて、花が風に揺れると、一面黄色くドローイングされるような光景です。暗黒の穴の中、ひと冬眠っていた蛙にとって、あまりにもまぶしい春の黄色い光です。作者は、目を細める蛙を見て、自身もまた目を細めているのでしょう。『花眼』(1969)所収。(小笠原高志)


March 0732015

 卒業の涙はすぐに乾きけり

                           今橋眞理子

年、三月第一週でその年度の授業が終わる。一年間、ほぼ毎日顔を合わせているので卒業式のみならず、どの学年を担当していてもそれなりに一抹の淋しさがあるのだが、この時期になると掲出句が思い出される。作句の年代から見て自らの卒業の印象であり、あんなに泣いたのに、という素直な実感が句となっていていろいろ言う必要もないのだが、こう言い切れる涙はなかなか他にはない。そして送り出す側は、そのまま二度と振り向くことなく思い出すことなく進んで行ってほしい、と願うのだ。あらためて、二十代から確かな感性を磨き続けてきた作者なのだと感じる。『風薫る』(2014)所収。(今井肖子)




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