土曜日の都心は、真冬でも何度もないような寒さになるようだ。(哲




2015ソスN3ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0532015

 園児らの絵の春山は汽車登る

                           後藤比奈夫

どもの描く絵は楽しい。遠近法の呪縛に囚われないでまずは自分の感性でインパクトを受けたもの中心に描くからだろうか。「園児ら」になっているから、一人ではなく多数で写生しているのか、目前で見ている景色は同じでも描き方は違う。だけどぼっこりふくらんだ緑の山の斜面を大きな黒い汽車が煙を吐きながら登っていくところは共通しているのかもしれない。「絵の春山は」と強調しているところから作者が見ている絵の主役は汽車ではなく春山で、園児らがクレヨンで描くおおらかさが春の山の持つ解放感を引き出している。そのむかし校庭で写生をした折に緑一色で裏山を塗り始めたわたしに、「よく見てごらん、この芽吹きの季節に同じ緑でもいろんな色が混じっているだろう。一番山がきれいなときだ。空の光り方だって違うだろう」と言ってくれた美術の先生を思い出す。掲句の園児の絵のように気持ちを解放することも出来ず、節穴の目のまま年月は流れたが、今年も春の山はいきいきと冬の眠りから目覚め始める。『祇園守』(1997)所収。(三宅やよい)


March 0432015

 竹聴いて居る春寒の厠かな

                           尾崎紅葉

月4日の立春から一箇月過ぎても、まだ冬を思わせる日がある。春とは言え寒気はまだ残っている。「春寒」は「余寒」と同じような意味があるけれど、「春寒」は「春」のほうに重心がかかり、「余寒」は「寒」のほうに重心がかかるというちがいがあるようだ。「竹聴いて」は、厠の外に植えられている何本かの竹の枝葉を吹き抜ける風、まだ寒さの残るういういしい春風のかすかな音に、耳傾けているように思われる。厠でしばし息抜きをしている売れっ子文士の、つかの間の時間がゆったりと流れている。厠はまだ寒いけれど、春がすぐそこまで近づいていることに対する、うれしさも感じられるようだ。「竹」と「厠」の対応がしっくりして感じられる。紅葉は子規の「日本派」と対立する結社「秋戸会」の代表幹部だった。その俳句は小説家の余技の域を超えていたし、本格的に苦吟に苦吟を重ねたと言われる。死後に『紅葉山俳句集』『紅葉句帳』『紅葉句集』などが刊行された。他に「雪解や市に鞭(むちう)つ牛の尻」「子雀や遠く遊ばぬ庭の隅」など、本格的である。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 0332015

 あたたかにつむりを寄せて女の子

                           高田正子

性の呼び方を定義することはむずかしいが、女の子とは0歳〜10歳あたり、少女期の前のひと桁の年齢がふさわしい。過ぎた日にはたしかに私自身も小さな女の子であったはずだが、今となってはその語感には、過去というより、どこか曖昧で不思議な感触を抱く。放出する少年のエネルギーに対し、少女たちは光りを内包するように輝いている。女の子が集まり、頭を寄せて、ひそひそと小声でささやき合う姿は、まるで、妖精たちがきれいな羽を閉じてなにごとかを相談しているようにも思われる。ここまで書いて、ボッティチェリの描く「春」とつながっていることに気づいた。無垢な女の子こそ、春の到来にもっとも似つかわしいものなのだ。本日は桃の節句。あちらこちらの雛壇の前で、かわいらしいつむりが寄せられ、春を祝福する図が描かれていることだろう。〈雛壇に小さき箒ちりとりと〉〈ほほといふ口して三人官女かな〉〈雛さまの百年風を聴くおかほ〉『青麗』(2014)所収。(土肥あき子)




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