もうウグイスが鳴いている地方もあるだろう。東京はまだだな。(哲




2015ソスN3ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0232015

 泛子投げて目をとどかする春夕べ

                           矢島渚男

か流れのゆるやかな川での釣りを詠んだ句だろう。夕暮れが近く、水面がだんだんと薄暗くなってきている。そろそろ引き上げどきだと思いながらも、あともう少しねばってみるかと、竿を振った図だ。当たり前だが、目は自然に泛子(うき)の飛んだほうに行き、小さな飛沫を上げて着水したあたりを見ることになる。釣りをしていなければ、決して目をやることなどはない場所を眺めることになる。とは言っても、そこに何か特別なものが見えるわけではない。泛子がぽつねんと浮いているだけだ。しかし見えてはいないけれど、そこにはたしかに他の季節にはない何かが存在している。目には見えないが、目でしか感じられない何かがあるのだ。それが「目をとどかする」という措辞に込められた「春夕べ」に対する、作者の静かなオマージュとなっている。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


March 0132015

 鶯のこゑのためにも切通し

                           鷹羽狩行

の声質は濃厚です。体の大きさに比べてその声量も大きく、たとえるなら、森のテノール歌手といってよいほどです。したがって、求愛の歌をうたう舞台にも、それなりのしつらえがあった方がよいでしょう。私の住む国分寺市にも切通しは保存されています。西国分寺駅から武蔵野線沿線を府中方面に1kmほど向かうと「伝・鎌倉街道」の碑があり、道幅3mほどの土の道が続きます。小高い山を切り開いて作った道なので、片側は10mほどの崖になっており、「いざ鎌倉」の時、軍馬が駆け抜けた面影を偲ぶことができます。切通しを効果的に使った映画に、鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』があります。もう、十年以上前になりますが、この切通しの現場を見たくて鎌倉に 行きました。手掛かりがないまま、何となく「鎌倉キネマ館」というbarに入ると、鈴木清順の古い映画を上映していて、そこのマスターに「ツィゴイネルワイゼンの切通しのロケ地はご存知ですか」と尋ねたら、となりに座っていた初老の紳士が「あれは、釈迦堂と化粧坂だよ」と教えてくださり、地図を書いてもらって、翌日歩きました。それ以来、鎌倉に行くときは、釈迦堂の切通しまで足を伸ばします。そこでは、春から夏にかけて、鶯の濃厚ではっきりした声を聴くことができます。切通しが、天然の反響磐になっていて、森のテノールを演出しています。掲句では、鶯の声が森の中を切り通して届かせている、そんな余韻ものこります。『定本 遠岸』(1996)所収。(小笠原高志)


February 2822015

 さらさらと舟のゆきかふ二月尽

                           高橋雅世

の前にある二月のカレンダー、一から二十八までの数字がきちっと長方形に並んでいる。たった二日か三日の差であるにもかかわらず二月があっという間に逃げてしまうのは、年度末に向かう慌ただしさと日々変わる天気や気温のせいだろうか。掲出句の、さらさら、にはそんな春浅い風と光が感じられる。小舟がゆっくりと行き交っているのは湖か。本当の春が近いことを告げる穏やかな日差しが、ああ二月も終わるなあ、と遠いまなざしで水辺に立つ作者に静かに降りそそいでいる。他に<椿より小さき鳥の来てをりぬ ><凧揚げの少年に草ながれけり>。『月光の街』(2014)所収。(今井肖子)




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