子供の頃に住んでいた山口県の田舎では旧正月を祝っていた。(哲




2015ソスN2ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1922015

 かたくりの花やお尻を日に温め

                           岡本紗矢

たくりは早春に耳を跳ね上げたようなうす紫の可愛い花が開く。花はうつむき加減で少しはにかんでいるように見える。目立たないけどそのたたずまいが魅力的な花である。東京でもかたくりの花が自生する場所があり、見に行ったことがある。掲句では、かたくりの花を見るのに腰をかがめて覗き込んでいるのだろう。突きだしたお尻に早春の明るい日差しがゆっくりと射している。かたくりの花の辺りはひんやりとお尻に当たる日ざしは暖かく、この時期のちょっとアンバランスな空気感が句に漂っていて心地いい。かたくりの根からとれる澱粉は今やほとんどないようだが、純正かたくりも残っているのだろうか。あるなら一度食べてみたい。『向日葵の午後』(2014)所収。(三宅やよい)


February 1822015

 雪晴れて杉一つ一つ立ちにけり

                           川端康成

が降ったあとの晴天は格別気持ちがいい。冬とはいえ、文字通り気分も晴れ晴れする。雪が少々枝葉にまだ残っている杉の山を前にしているのだろうか。冬場の杉の木は、特に遠くからは黒々として眺められる。だから杉の木の一つ一つが、あたかも意志をもって立っているかのように目に写っている。「立ちにけり」としたことで、杉の木の意志のようなものを作者は特別に感じているのだ。あのギョロリとした康成の眼も感じられないだろうか。晴れの日、曇りの日、雪の日、それぞれ杉の木も天候によってちがって見える。ここは松などではなく、スッとまっすぐに立つ杉でなくては、雪晴れとのすっきりとしたバランスがとれない。康成の句を評して、村山古郷は俳句の立場から「非常に高い象徴性、陰影と余韻に富んだその文章は、俳句表現の省略法と集注法を加味した点で、俳句的な独自な文体といえるのではあるまいか」と評している。康成にはいくつかの俳句があり、「先づ一羽鶴渡り来る空の秋」もその一つ。『文人俳句歳時記』(1969)」所収。(八木忠栄)


February 1722015

 日の涯雪の涯の春動く

                           深谷雄大

にはどちらも「はたて」のルビ。北海道在住の作者にとって、実際の春の訪れはまだずっと先のことながら、だからこそわずかな変化にも敏感なのだと思われる。冬至から確実に日は伸び続け、昼間の長さによって季節の動きを実感する。俳句で使われる「日」には、陽光と一日という時間のどちらとも取れるものだが、掲句では、どこまでも続く地平の涯まで積もった雪の上に投げかけられたたっぷりの日差しが感じられる。「涯」の文字が、はるかかなたではあるが、確かに動いているのだという存在感にもつながっている。一面の雪の上に投げかけられた日差しはまるで春を招く風呂敷のように明るく広がり、北国の春がずっと向こうから一心に手を振っている。〈耳当てて根開きの樹の声を聴く〉〈水の面の雲逆流る春の天〉『寒烈』(2014)所収。(土肥あき子)




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