東京地方に降雪予報。最高気温4度。真冬に逆戻りだ。(哲




2015ソスN2ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1822015

 雪晴れて杉一つ一つ立ちにけり

                           川端康成

が降ったあとの晴天は格別気持ちがいい。冬とはいえ、文字通り気分も晴れ晴れする。雪が少々枝葉にまだ残っている杉の山を前にしているのだろうか。冬場の杉の木は、特に遠くからは黒々として眺められる。だから杉の木の一つ一つが、あたかも意志をもって立っているかのように目に写っている。「立ちにけり」としたことで、杉の木の意志のようなものを作者は特別に感じているのだ。あのギョロリとした康成の眼も感じられないだろうか。晴れの日、曇りの日、雪の日、それぞれ杉の木も天候によってちがって見える。ここは松などではなく、スッとまっすぐに立つ杉でなくては、雪晴れとのすっきりとしたバランスがとれない。康成の句を評して、村山古郷は俳句の立場から「非常に高い象徴性、陰影と余韻に富んだその文章は、俳句表現の省略法と集注法を加味した点で、俳句的な独自な文体といえるのではあるまいか」と評している。康成にはいくつかの俳句があり、「先づ一羽鶴渡り来る空の秋」もその一つ。『文人俳句歳時記』(1969)」所収。(八木忠栄)


February 1722015

 日の涯雪の涯の春動く

                           深谷雄大

にはどちらも「はたて」のルビ。北海道在住の作者にとって、実際の春の訪れはまだずっと先のことながら、だからこそわずかな変化にも敏感なのだと思われる。冬至から確実に日は伸び続け、昼間の長さによって季節の動きを実感する。俳句で使われる「日」には、陽光と一日という時間のどちらとも取れるものだが、掲句では、どこまでも続く地平の涯まで積もった雪の上に投げかけられたたっぷりの日差しが感じられる。「涯」の文字が、はるかかなたではあるが、確かに動いているのだという存在感にもつながっている。一面の雪の上に投げかけられた日差しはまるで春を招く風呂敷のように明るく広がり、北国の春がずっと向こうから一心に手を振っている。〈耳当てて根開きの樹の声を聴く〉〈水の面の雲逆流る春の天〉『寒烈』(2014)所収。(土肥あき子)


February 1622015

 子の家に居ても旅びと春浅し

                           石原フサ

節は多少違うが、小津安二郎の映画「東京物語」を思い出した。尾道で暮らす老夫婦が、成人して東京に出ている子どもたちの家を訪ねていく物語だ。別に邪険にされるわけではないが、何とない居心地の悪さを感じる旅なのだった。老父である笠智衆が東京の酒場で知り合いに会い、医者になっている長男のことを「羨ましい」と褒められると、毅然としていいかえす。「医者といっても町医者じゃ。私は不満じゃ。じゃけど、子どもにそう思うたら、いけん。そう思うのは親の欲目というもんじゃ」。ここにきて、人の子である観客は誰しもがほっとするわけだが、映画は親子のギクシャクとした関係をそのままに終わっていく。まだ少し寒さの残る早春の候に、家族関係を詠みこんだ巧さに膝を打った。『現代俳句歳時記 春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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