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2015ソスN2ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1222015

 春星や紙石鹼も詩もはるか

                           花谷和子

石鹸!懐かしい。私が小学校ぐらいまで紙石鹸ってあった。湿気があるとすぐベタベタになってしまい実用的に見えて実際の用途に耐えるものではなかった。時代はいろんなものを置き去りにしてゆく。紙石鹸、セルロイドの筆箱、薬包紙、昭和30年代に日常的にあって消えてしまったものは多い。青春期に渇望に近い気持ちで読んだ詩も、今はそうした心持ちで向かうことはなくなったのか。春星と詩の取り合わせは甘やかに思えるが、はるか春星への距離と同時に二度と戻れぬ過去への時間的隔たりを「紙石鹸」という具体物で表している。紙石鹸は懐かしいが今の自分とはかかわりのないもの。あれほど繰り返し読んだ詩も今の自分からは遠い。時代は変わり人の心も変わる。失ったからこそ、郷愁はかきたてられるのだろう。『歌時計』(2013)所収。(三宅やよい)


February 1122015

 うつぶせの寝顔をさなし雪女

                           眞鍋呉夫

女といえば眞鍋呉夫である。「雪女」を詠んだ秀句が多いし、だいいち『定本雪女』(1998)という名句集があるくらいだ。掲出句も同書に収められている。「寝顔をさなし」ゆえ、呉夫にしては一見やさしそうな(あるいは幼い)雪女であるように思われるかもしれない。しかも「うつぶせ」になっているのだ。しかし、この雪女は幼童ではなく大人であろう。たとえ雪女であっても、寝顔そのものは幼く見えることもあろう。まして、うつぶせになっているのだから無防備に近い。けれども、どうしてどうして、呉夫の句はクセモノである。寝顔は幼いかもしれないが、目覚めればたちまち恐ろしく妖艶な雪女に一変するに決まっている。寝顔が幼いところに、むしろ雪女の怖さがじつはひそんでいる。呉夫の雪女が芯から幼いはずがないーーと考えてしまうのは、こちらの偏見だろうか。寝顔が幼いからこそ雪女には油断ができない。雪女の寝顔をそっとのぞきこんで、このような句を作ってしまう呉夫の形相も、雪女に負けず恐ろしいことになっているにちがいない。雪女の句が多いなかで、「口紅のあるかなきかに雪女」を挙げておこう。(八木忠栄)


February 1022015

 薄氷に透けて泡沫動きけり

                           深海龍夫

氷(うすらい)は、春先うっすらと張る氷。頼りなく淡くはかなくあることが身上である。氷の下にたまった空気も、深く固くとじこめられた風情ではない。薄い氷ごしに、今にも外に出たそうに動く小さな泡は、春の卵のようにうずうずと動きまわっている。まだまだ名のみの春とはいえ、薄氷に注ぐ日差しはまっさきに泡沫を助け出し、氷の張った水たまりはたちまち春の泥と化すのだ。凍える日々から一刻も早く解放はされたいが、霜柱や氷の張った水たまりを踏み歩く楽しみを手放し、春の泥が跳ねないように注意深く歩かねばならなくなってしまうことだけは、少々残念なのである。〈疑問符は耳の形や春立てり〉〈蹤いてくるイルカが二頭春の航〉『鉄塔』(2014)所収。(土肥あき子)




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