冬だから仕方ないけど……。寒気が居座る日本列島。(哲




2015ソスN1ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1212015

 成人の日の母たりしこと遥か

                           今井千鶴子

日の「成人の日」を詠んだ句は多いけれど、掲句の視点はユニークだ。子供の生長にことよせて、現在の自分のことを詠んでいる。あんなに小さかった我が子が、つつがなく成人の日を迎えた。傍目には平凡な事実が、産み育てた母親としての自分にはとても感慨深く感じられた。赤ん坊から大人への道程には、いくつもの劇的な変化が伴う。よくもここまでと、とりわけて母親には感じることの多い日であろう。そんな特別な日も、しかしいまでは遥か昔のことになってしまった。そのことを思うと、遠くまで来たものだという新しい感慨がわいてくるのである。かつて晴れがましそうに成人式に出向いていった子どもも、もはや自分と対等の大人であり、子どものころのような劇的な変化を見せることもない。これが人生の定めである。母としての作者は、その現実に一抹の寂しさを覚えながらも、おだやかに微笑しているような気がする。俳誌「ホトトギス」(2004年6月号)所載。(清水哲男)


January 1112015

 早咲きの木瓜の薄色蔵開き

                           鈴木真砂女

歳時記によると、蔵開きは、年のはじめに吉日を選んでその年初めて蔵を開くこと。また、その祝い。多く正月の十一日に行ない、江戸時代に、大名が米蔵を開く儀式に始まるといいます。鏡開きで餅を割って食べる日でもある今日は、正月に休めていた筋肉を再始動させるスタートの日のようでもあります。また、家庭では、正月用の器の類を蔵に仕舞って日常に戻っていく、そんな生活の節目でもあったのでしょう。しかし、げんざい、そのような生活習慣はとうに切れていますから、掲句の「蔵開き」は、むしろ抽象的に使われているでしょう。春に咲く木瓜(ぼけ)の花がほんのり薄赤く咲き始めていて、それが、正月開けの人々の動きと連動しているように見えます。自 然界も 人の世も、徐々に活気づく日常が動き始めます。ただし、春はまだ遠く、早咲きの木瓜の花が受粉するのはかなりむずかしいでしょう。『鈴木真砂女全句集』(角川書店・2001)所収。(小笠原高志)


January 1012015

 寒苺われにいくばくの齢のこる

                           水原秋桜子

苺は本来、冬苺とも呼ばれる野生の実で、これが冬苺ですよ、と言われ丸くぷちぷちとしたそれを口にした時のすっぱさと共に記憶にある。しかしこの句の寒苺は、寒中に出回っていた温室栽培の冬の苺。というのも、売っていたものを買い求め、そのつややかな色を描こうとして見つめている時に作られた句であるからだ。確かに、思わず自らの老いを自覚してしまう感覚は、大粒でみずみずしい真紅の苺の輝きがなくては生まれない。しかし、寒苺の句として読んでも、冬枯れの野に小さく実をつけた冬苺の赤を愛おしむようなやさしさがにじんで、自らの老いはとうに自覚している、というまた違った趣の一句となる。ただ、われにいくばくの、とあえて字余りのひらがな表記の中八には前者の方がぴたっとくるだろう。六日の寒の入から月も欠け始めいよいよ寒さもこれからである。『霜林』(1950)所収。(今井肖子)




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