ご迷惑をおかけしていますが、今夜遅くに帰宅する予定です。(哲




2014ソスN12ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 23122014

 どろどろのマグマの上のかたき冬

                           水岩 瞳

グマといえば、噴火で流れ出た溶岩を思うが、本来は地下の深部にあるもの。あらためて地球の内部構造の解説を見てみると、今から約46億年前に誕生して以来、地球はマグマの海に覆われ、そののちゆっくりと表面が固まったと説明されている。地球の直径は1万km以上で、人間が掘ったもっとも深い穴は10kmほどというのだから、地球の内部のほとんどを人間はまだ見ていないことになる。宇宙も神秘だが、地中も神秘に満ちている。地球の薄皮一枚の地表の上で、冬が来たと右往左往する人間がことさらが愛おしく思えるのである。〈この道の草に生まれて草の花〉〈円かなる月の単純愛すかな〉『薔薇模様』(2014)所収。(土肥あき子)


December 22122014

 ひだりより狐の出でし障子かな

                           西原天気

語は「障子」。これを冬の季語とするのは、まだ冷暖房設備が整わなかったころ、夏は風通しをよくするために外し、寒くなってきてから障子を入れる習慣があったため。こうして整えられるのが「冬座敷」というわけだ。その冬座敷の障子に、いきなり狐が現れた。びっくりするような光景だが、この狐は影絵遊びのそれだろう。貼り替えた真新しい障子は、それでなくとも想像力を刺激してくる。影絵の主もちょっと遊んでみたかったのだろう。私も子供のころに、狐や犬を写しては弟に見せて楽しんだものだった。ただし電気の来ない家に住んでいたので、光源はランプだった。大人であればランプの光源はゆらめいたりするので魅力的と思うかもしれないが、子供にははっきりしない映像がもどかしかった、狐や犬以外にも多くのキャラクターを作ることができたけれど、いまでは狐と犬くらいしか覚えていない。そして現在の我が家には、もはや肝心の障子がないのである。『けむり』(2011)所収。(清水哲男)


December 21122014

 空を出て死にたる鳥や薄氷

                           永田耕衣

は水中に生き、哺乳類は地上に生きます。魚は水中から出ると死に、哺乳類は、クジラ・イルカの類を除けば水中では生きられません。掲句もその考え方でいいのかどうか。空を出たら、鳥は死ぬ。そんな、空の掟があるのでしょうか。その前に、空とは何か。空はどこから始まってどこで終わるのでしょう。うまく定義づけられません。無難に答えるなら、水中でも地表でもない空間ということになります。ところで、私が今いる二階の部屋は水中でも地表でもありませんが、空でもありません。たしかに、私が部屋を出て家を出て戻らなければ、死んでしまったと思われることもあるでしょう。掲句の鳥も、空を出て、鳥としての生活圏外に出てしまったから死んだのでしょ う。あるい は、生き物が死ぬということは、生活圏の外に出るということなのでしょう。当たり前ですね。ちょっと視点を変えます。掲句の鳥は、雀や鳩、鴉ではありません。雀は、電線を伝わる程度の飛躍力しかないし、21世紀に入って、伝書鳩はほぼ絶滅しているでしょう。都会の鴉は、サラリーマンのように郊外の森から都心に出勤するので、数十メートル上空を移動します。鴉は、黒い羽根に隠された逞しい筋肉で羽ばたき空を飛びますが、狡知を働かせた都市生活者として地に足をつけて生きています。雀も鳩も鴉も、都市民のおこぼれをいただいて生計を立てるパラサイトである以上、空の生き物とは言えません。たぶん、掲句の鳥は、人間の世界とは全く無関係に、自然の摂理の中で生きる鳥だと思い ます。雁や鴨、ツグミやヒワなどの渡り鳥が、薄氷が張っている湖畔で客死している姿です。作者は、旅に死す姿に、至上の生き様をみています。詩人の死もこうあるべきや否や。空はどこから空なのか、その境界は曖昧ですが、湖水と地表の境界に薄氷を張らせたところに、画家でもあった耕衣の絵心をみます。その心は、鳥の死骸の傍らで、薄氷には空が反射しています。ここまでが空、ここからが空。天と地の、鳥送りのレクイエムです。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)




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