午後、今年最後の余白句会。兼題はなんと「地獄」です。(哲




2014ソスN12ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 20122014

 着ぶくれてゐても見つけてくれる人

                           石塚直子

、重くて肩が凝るという理由で真冬でも薄着していたら、寒い時薄着をしていると体の防衛本能が働いて脂肪が付きますよ、ほらトドみたいに、と言われ慌てて分厚いコートを着たことがあった、今は高性能のインナーやダウンジャケットがあるので助かる。そのダウンジャケットも、膨らんで見えるから着ません、と言っている知人もいるし、雑誌には、着ぶくれしないダウンジャケットの選び方、が特集されていたりする。伊達の薄着に象徴される我慢が、粋すなわちお洒落に通じるとすれば、安心して着ぶくれることは甘えに通じるということか。若い二人にとってはそんな甘えも文字通り心地よい甘さなのですね。『古志青年部作品集 第二号』(2013)所載。(今井肖子)


December 19122014

 うつくしき骨軋ませて雪は降る

                           月野ぽぽな

を歩くときゅっきゅっと靴が鳴り、静かに降りしきる雪が重たく積ってその幹や枝を軋ませている。これをうつくしい骨が軋んでいると観る感性がある。このシューリアリズムの表現を敢てこの世の景観に変換する必要もなかろう。ここにあるのはただ軋む骨、降る雪、白い美しさ、それ以上のものでない方がよい。他に<これはまだ幼い鎌鼬だろう><冬霧の膝を崩して夜の底へ><陽のままでいる綿虫に出会うまで>などあり。「俳句」(2012年1月号)所載。(藤嶋 務)


December 18122014

 コート払ふ手の肌色の動きけり

                           村上鞆彦

か紺色が深い色のコートの袖から出ている手の動きが生々しく感じられる。「コート払う」とあるので肩や裾あたりを手で払う動作が想像されるが、冬物の濃いコートの色を背景に遠くからでもその動きは目立つことだろう。句の着目はあくまでも手の「肌色」である。クレオンの肌色という色がオレンジベージュという言葉に変わったというニュースを聞いた。確かに人種によって「肌色」は違うし、あくまで黄色人種の日本人の示す範囲の概念だからだろう。この句で連想させる色もその肌色なのだけど、「肌色の動きけり」と即物的に書かれているだけに、コートからむき出しになっている手の動きと、その手がさらされている冷たい空気を想像させる。防寒用のコートや外套そのものを句の中心に置いた句を多いが、コートから露出した手でコートの色や質感を際立たせるような掲句の視点は新鮮に思える。『新撰21』(2009)所載。(三宅やよい)




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