師走も半ば。やっと年賀状を少しだけブリントアウトした。(哲




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December 16122014

 冬帽子試してどれも似合はざる

                           井出野浩貴

ね着するより帽子をかぶるほうがあたたかいと知ってから、冬場に帽子は欠かせないものになった。しかし、ニットや頭にフィットする素材が多い冬帽子は、輪郭と一体化するため、顔のかたちが強調される。掲句では、ショップであれこれ試してみてもどうもしっくりしないし、店員さんの言葉も素直も信用できなくなってくる。それでもいくつも被ってみて、いらないと出て行くのも悪い。さらに、店内の照明のなかで汗ばんた頭に被るのさえつらくなってきている状態と推察する。似合うか、似合わないかより、実は見慣れていないことにも原因はあるようだ。つば付きのものだと意外と違和感がないというので、初挑戦の方はぜひお試しあれ。〈不合格しづかに踵かへしけり〉〈卒業す翼持たざる者として〉『驢馬つれて』(2014)所収。(土肥あき子)


December 15122014

 名画座の隣は八百屋しぐれ来る

                           利普苑るな

学に入った年(1958年)は、宇治に下宿した。まだ戦後の色合いが濃く滲んでいた時代である。宇治は茶どころとして、また平等院鳳凰堂の町として昔から有名だったが、時雨の季節ともなると、人通りも少なく寂しい町だった。町に喫茶店は一軒もなく、ミルクホールなる牛乳屋のコーナーがあるだけだった。この句は、そんな宇治のころを思い出させてくれる。暮らしたのは宇治橋の袂からすぐの県通りで、私の下宿先から三十メートルほど離れたところに、名画座ではないが小さな映画館があった。隣がどんな建物だったかは覚えていないけれど、下宿の前が豆腐屋、その隣辺りに風呂屋があったといえば、この句の世界とほぼ同じようなたたずまいだ。句は町の様子をそのまんまに詠んだものだが、こうした句は、時間が経つほどにセピア調の光沢が増してくる。俳句ならではのポエジーと言ってよいだろう。なお、作者名「利普苑るな」は「リーフェン・ルナ」と読ませる。『舵』(2014)所収。(清水哲男)


December 14122014

 冬の暮何の疲労ぞ鮒を飼ひ

                           永田耕衣

滞しています。冬の暮は、季節の谷底です。植物は枯れ、動物の死骸は干からびて吹き溜まります。季節に感応しやすい作者は、どん底の時間を甘受しつつ、口まで吸って愛した鮒を飼うことに疲労を感じています。(「寒鮒の口吸う泣きの男かな」)。これは、二者の関係の絶頂は過ぎ、もう下降していく未来しかない時に生ずる疲労なのかもしれません。かたや、鮒はどう思っているのでしょう。あれほど強く求愛されてほだされて身を任せたものの、水槽生活はあまりに四角四面です。たしかに 、餌は安心して食べられます。水質も濾過装置がはたらいていて、常にきれいです。しかし、池の中にいた時のような、冒険したり、駆け引きに身を隠したり逃れたりした後にやってくる心地よい疲労がありません。鮒は、清潔で安全で豊かで、何ひとつ不安のない生活と引き換えに、ときめきを喪失したことを自覚しました。作者も、鮒の自覚を季節の谷の底で認識して、抜け出すことのできない疲労感に陥っています。なお、句集には他に「濁り鮒亡父母も共に潜り行く」「寒鮒の死にてぞ臭く匂ひけり」があります。生きている鮒は、生きるための新陳代謝をおこなっているので鮮度がいいのに対して、死んだ鮒は、生態系の中で分解される時、化学反応の臭気を発散します。耕衣は、生の新鮮さと死の化学 の両方を一方に偏らず、一方を美化することなく、公平な眼で写実しています。ここに、収支決算ゼロという耕衣の特質の一つを見いだします。数学的に言えば、左辺と右辺は等しいということになり、幸福と不幸、快楽と苦痛、それぞれのエントロピーもまた等しいということになるのでしょう。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)




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