どういうわけか、最近は短歌に関心が…。近藤芳美を読んでいる。(哲




2014ソスN12ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 05122014

 潜る鳰浮く鳰数は合ってますか

                           池田澄子

(ニオ、ニオドリ、カイツブリ)は湖沼や公園の池などに棲み、例えば琵琶湖は鳰の湖などと称され親しまれている。しかしめったに地上には上がらず、水に潜っては魚や小エビ、昆虫などを捕食している。目まぐるしく浮き沈みする様を眺めていると、その沈んだ数と浮いた数が合っていないかもしれないなどと心配になってくる。「合ってます」とはとても確信が持てない。何しろ顔付もみなそっくりなのだ。潜った鳰が次にすぐ浮いて来るとは限らないし、長く潜っているものや直に浮いて来るものなど様々である。また浮いて来る場所にも意外性があって想定外の場所に出てくる。でも数だけは合っているはずだがなあ。『空の庭』(2005)所収。(藤嶋 務)


December 04122014

 銀閣も耳の後ろも冬ざるる

                           柳生正名

閣は金閣に比べて地味で渋い味わいの寺である。数年前に雪の京都を訪れたことがあるが、金閣は絢爛、銀閣は雪が暖かく見えるほどひっそりと静まり返ったわび姿だった。「冬ざれ」は冬枯れのさびしく荒涼たるさま、と歳時記にある。冬ざれの中に佇む銀閣は銀沙灘と向月台とそぎ落とした簡素なたたずまいが特徴なだけに、蕭条たるさまに寒さがいっそう伝わってくるように思う。銀閣も庭も冬ざれて、耳の後ろあたりからぞわぞわ来る寒さ、じんじんと足下から全身に伝わってくる寒さを感じているのだろう。底冷えの京都で冬ざれた銀閣を眺めるのは紅葉の季節、桜の季節と違った美しさを感じられていい。そのあとは熱いきつねうどんでも食べたくなるだろうな、きっと。『風媒』(2014)所収。(三宅やよい)


December 03122014

 とぎ水の師走の垣根行きにけり

                           木山捷平

や、師走である。「とぎ水」はもちろん米をといだあと、白く濁った水のことである。米をとぐのは何も師走にかぎったことではなく、年中のこと。しかし、あわただしい師走には、垣根沿いの溝(どぶ)を流れて行く白いとぎ水さえも、いつもとちがって感じられるのであろう。惜しみなく捨てられるとぎ水にさえ、あわただしくあっけない早さで流れて行く様子が感じられる。「ながれ行く」ではなく「行きにけり」という表現がおもしろい。戦後早く、牛乳が思うように手に入らなかった時代、米のとぎ汁に甘みを加えて、乳幼児にミルク代わりに飲ませている家が近所にあったことを、今思い出した。栄養不足で、母乳が十分ではなかったのだ。とぎ汁には見かけだけでなく、栄養もあったわけだ。寒さとあわただしさのなかで、溝(どぶ)を細々とどこまでも流れて行く、それに見とれているわずかな時間、それも師走である。とぎ水を流すその家も師走のあわただしさのなかにある。「師走」の傍題は「極月」「臘月」「春待月」「弟(おとこ)月」など、納得させられるものがいろいろある。野見山朱鳥の句に「極月の滝の寂光懸けにけり」、原石鼎に「臘月や檻の狐の細面」などの句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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