この道しかない(晋三)。この道しかない春の雪ふる(山頭火)。(哲




2014ソスN12ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 02122014

 花八手むかし日暮れに糸電話

                           七田谷まりうす

コップふたつと数メートルの糸さえあれば糸電話はできあがる。コップをつなぐ糸をぴんと張ることがもっとも大切な約束ごとだが、たったそれだけのことで声が運ばれるとはなんだか不思議な気持ちになる。「じゃあ、始めるよ」と、糸を張るためわざわざ遠くに離れ、話し終わればコップを手渡すためにまた顔を合わせるのだから、結局聞こえたか、聞こえないか、程度の会話が続く。それでも糸を伝わる声は、どこか秘密めいていて、他愛ない言葉のひとつひとつが幼い心を刺激した。全神経を耳に集中して、あの階段、この路地と試してみれば、冬の日はたちまち暮れてしまう。路地や庭先に生えていた無愛想なヤツデの花が、まるで通信基地のように薄暗がりにぬっと突き出ていた。〈折鶴の折り方忘れ雪の暮〉〈枯葦に分け入りて日の匂ひけり〉『通奏低音』(2014)所収。(土肥あき子)


December 01122014

 老い兆す頭ごなしに十二月

                           小嶋萬棒

いは、いずれは訪れるにしても、万人に共通の年齢で訪れるわけではない。私の体験や観察によれば、あまり年齢には関係なく、兆はある日突然のようにやってくる。どうも身体の具合がおかしいな、復調しないなと感じはじめたときには、それが老いの兆なのだ。認めたくはないけれど、そうなったらもう以前の体調には戻らないのである。若いころの身体の不調ならば、ほとんどが復調するのだが、そうはいかなくなってくる。そこが老いの辛いところで、そうなったらひたすらに不具合が進行しないようにと願うわけだが、そのためには時間にゆっくり流れてくれるよう祈るくらいしか術がない。しかし、その気持ちが強ければ強いほど、時間が早く流れていくように感じられる。もう今日から十二月。私にも有無を言わさず「頭ごなしに」やってきた。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)


November 30112014

 池を出ることを寒鮒思ひけり

                           永田耕衣

鮒が池を出る方法は三つある。一つ目は、飛び跳ねて池辺りに出ることだが、これは自死である。二つ目は、青鷺のような大きな鳥に捕獲されることで、これも死ぬことになる。三つ目は、腕利きの釣り師にうまく釣り上げられることだ。この寒鮒の棲まいは、湖でも川でも海でもない池です。商業的な目的で作られた管理釣場に生きる鮒は、日々、鼻先にエサを突きつけられていて、食欲に関しては不感症になるくらいスレています。狡猾な釣り人とのかけひきに暮らしていますから、人間の浅知恵 くらいは学習しているはずで、少なくとも、この池の中で生き抜く能力では人知を凌駕しています。ところが今日、今まで見たことのない針の動きを目にしました。ふつうの針は、自然に漂っているように見せかけながら、しかし、釣り師の欲望は竿から糸、糸から針へと伝わってきて、それは、魚類特有の嗅覚で感知できます。ところが、この針にはそんな臭いがしない。まるで、水を釣りに来たような無欲な針である。寒鮒は、この針を目にして、釣り師の顔を見たくなったのではないでしょうか。スレているゆえに、天の邪鬼な性質(たち)なのです。さて、釣り師は、本当に水を釣りに来た無欲な御仁であったかどうかは定かではありませんが、寒鮒の口元を損なうことなくきれいに釣り上げました。その後 、リリースしたのか、自宅の水槽で飼うことにしたのか、鮒鮨にしたのか、これも定かではありません。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)




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