東京地方、雨降りの予報。何日ぶりの雨だろうか。おさらば乾燥。(哲




2014ソスN11ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 25112014

 枯野には枯野の音の雨が降る

                           松川洋酔

れることの定義を広辞苑ではどう表現しているのだろうとなにげなく開いてみると、「水気がなくなって機能が弱り死ぬ意。死んでひからびる。若さ、豊かさ、うるおいなどがなくなる。」など、なんだか身につまされて、調べたことを後悔する。枯れ果てた草木に追い打ちをかけるような雨を思い、気分が沈む。しかし、気を取り直して「枯れる」の項を読み続けると、最後の最後にパンドラの箱に希望が取り残されていたように「長い経験の結果派手さが消え、かえって深い味を持つようになる」とあった。枯野から放たれる雨音は、思いのほか軽やかで、明るい音色に包まれていたのだ。そして、街には街の音、海には海の音の雨が降るのだと静かに気づかされる。〈裸火の潤みし雨の酉の市〉〈千年の泉のつくる水ゑくぼ〉〈湯たんぽの火傷の痕も昭和かな〉『水ゑくぼ』(2014)所収。(土肥あき子)


November 24112014

 国会中継延々葱買いに行かねば

                           きむらけんじ

会中継はよく見るほうだと思う。だが最近は、たとえば往年の共産党・正森成二のような舌鋒鋭い突っ込みの名人がいないので、あまり面白くない。句の「延々」は、そのことを言っている。かといって気になるやりとりも少しは出てくるので、スイッチを切るに切れないというところか。葱を買いに行かねばならぬという目前の用事のことがちらちら頭をかすめるが、なかなか席を立てないもどかしさ。天下の大事と日常生活の小事とが、同じくらいの重さで行き交う面白さ。しかし、議員センセイなどには到底わからぬであろうこの種の庶民感覚が、本当は政治的にも大切なはずである。国会の「延々」には、この感覚の差異がいつまでも平行してクロスしないもどかしさも、含まれているのだろう。自由律句だけれど、本サイトではいちおう冬の季語の「葱」に分類しておく。『圧倒的自由律 地平線まで三日半』(2014)所収。(清水哲男)


November 23112014

 水を釣つて帰る寒鮒釣一人

                           永田耕衣

われてみれば、然り。私もこのようにして釣場を後にすることが多い。ただし、今まで一番多く釣ったのは、自分自身。正確に言うと、自分の袖。頭上の木の枝にもたくさん引っ掛けました。きちんと水を釣って帰って来られるようになったのは、釣を始めて十年近く経ってからです。つまり、掲句の釣り人はヘボに非ず、けっこうな腕前の持ち主でしょう。『吹毛集』(1955・耕衣55歳)所収で、上五は、「水を釣り」ではなく「水を釣つて」と字を余したところに釣師の徒労があらわれています。「水 を釣つて帰る」とは、格好のよい遊びの境地ですが、負け惜しみの気持ちものみ込んでいるでしょう。ただ、魚を釣り上げた時は、その手応えを喜ぶと同時に、命に対するちょっとした済まなさに針さされることもあります。その点、水を釣る釣り人は、初めは期待感を持って糸を垂らしますが、じれたり焦ったり、けっきょく、諦念をもって静かに竿を畳みます。それでも、ついにお目にかかれなかった「寒鮒」に遊んでもらいながら、澄明な時間を過ごすことができた。人と遊ぶ、生き物と遊ぶ、命の無い物と遊ぶ。この遊びの三態の中で、水や雲や石といった非生命と遊ぶ境地は、人生を寂しくさせないでしょう。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます