三連休って多いな。土曜出勤だった私の世代からすれば夢のよう。(哲




2014ソスN11ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 24112014

 国会中継延々葱買いに行かねば

                           きむらけんじ

会中継はよく見るほうだと思う。だが最近は、たとえば往年の共産党・正森成二のような舌鋒鋭い突っ込みの名人がいないので、あまり面白くない。句の「延々」は、そのことを言っている。かといって気になるやりとりも少しは出てくるので、スイッチを切るに切れないというところか。葱を買いに行かねばならぬという目前の用事のことがちらちら頭をかすめるが、なかなか席を立てないもどかしさ。天下の大事と日常生活の小事とが、同じくらいの重さで行き交う面白さ。しかし、議員センセイなどには到底わからぬであろうこの種の庶民感覚が、本当は政治的にも大切なはずである。国会の「延々」には、この感覚の差異がいつまでも平行してクロスしないもどかしさも、含まれているのだろう。自由律句だけれど、本サイトではいちおう冬の季語の「葱」に分類しておく。『圧倒的自由律 地平線まで三日半』(2014)所収。(清水哲男)


November 23112014

 水を釣つて帰る寒鮒釣一人

                           永田耕衣

われてみれば、然り。私もこのようにして釣場を後にすることが多い。ただし、今まで一番多く釣ったのは、自分自身。正確に言うと、自分の袖。頭上の木の枝にもたくさん引っ掛けました。きちんと水を釣って帰って来られるようになったのは、釣を始めて十年近く経ってからです。つまり、掲句の釣り人はヘボに非ず、けっこうな腕前の持ち主でしょう。『吹毛集』(1955・耕衣55歳)所収で、上五は、「水を釣り」ではなく「水を釣つて」と字を余したところに釣師の徒労があらわれています。「水 を釣つて帰る」とは、格好のよい遊びの境地ですが、負け惜しみの気持ちものみ込んでいるでしょう。ただ、魚を釣り上げた時は、その手応えを喜ぶと同時に、命に対するちょっとした済まなさに針さされることもあります。その点、水を釣る釣り人は、初めは期待感を持って糸を垂らしますが、じれたり焦ったり、けっきょく、諦念をもって静かに竿を畳みます。それでも、ついにお目にかかれなかった「寒鮒」に遊んでもらいながら、澄明な時間を過ごすことができた。人と遊ぶ、生き物と遊ぶ、命の無い物と遊ぶ。この遊びの三態の中で、水や雲や石といった非生命と遊ぶ境地は、人生を寂しくさせないでしょう。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)


November 22112014

 暮るるよりさきにともれり枯木の町

                           大野林火

木は、すっかり葉が落ちてまるで枯れてしまったように見える木のことで冬木に比べ生命力が感じられないというが、枯木の町、には風が吹き日があたり人の暮らしがある。まだ空に明るさが残っているうちからぽつりぽつりとともる窓明り。ともれり、が読み手の中で灯る時、冬の情感が街を包んでゆく。この句は昭和二十六年の作だが同年、師であった臼田亜浪が亡くなっている。その追悼句四句の中に〈火鉢の手皆かなしみて来し手なり〉があるが、このかなしみもまた静かにそして確かに、悲しみとなり哀しみとなって作者のみならず読み手の中に広がってゆくだろう。『青水輪』(1953)所収。(今井肖子)




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