師走まであと一週間。年賀状は早めに求めた……けど。(哲




2014ソスN11ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 23112014

 水を釣つて帰る寒鮒釣一人

                           永田耕衣

われてみれば、然り。私もこのようにして釣場を後にすることが多い。ただし、今まで一番多く釣ったのは、自分自身。正確に言うと、自分の袖。頭上の木の枝にもたくさん引っ掛けました。きちんと水を釣って帰って来られるようになったのは、釣を始めて十年近く経ってからです。つまり、掲句の釣り人はヘボに非ず、けっこうな腕前の持ち主でしょう。『吹毛集』(1955・耕衣55歳)所収で、上五は、「水を釣り」ではなく「水を釣つて」と字を余したところに釣師の徒労があらわれています。「水 を釣つて帰る」とは、格好のよい遊びの境地ですが、負け惜しみの気持ちものみ込んでいるでしょう。ただ、魚を釣り上げた時は、その手応えを喜ぶと同時に、命に対するちょっとした済まなさに針さされることもあります。その点、水を釣る釣り人は、初めは期待感を持って糸を垂らしますが、じれたり焦ったり、けっきょく、諦念をもって静かに竿を畳みます。それでも、ついにお目にかかれなかった「寒鮒」に遊んでもらいながら、澄明な時間を過ごすことができた。人と遊ぶ、生き物と遊ぶ、命の無い物と遊ぶ。この遊びの三態の中で、水や雲や石といった非生命と遊ぶ境地は、人生を寂しくさせないでしょう。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)


November 22112014

 暮るるよりさきにともれり枯木の町

                           大野林火

木は、すっかり葉が落ちてまるで枯れてしまったように見える木のことで冬木に比べ生命力が感じられないというが、枯木の町、には風が吹き日があたり人の暮らしがある。まだ空に明るさが残っているうちからぽつりぽつりとともる窓明り。ともれり、が読み手の中で灯る時、冬の情感が街を包んでゆく。この句は昭和二十六年の作だが同年、師であった臼田亜浪が亡くなっている。その追悼句四句の中に〈火鉢の手皆かなしみて来し手なり〉があるが、このかなしみもまた静かにそして確かに、悲しみとなり哀しみとなって作者のみならず読み手の中に広がってゆくだろう。『青水輪』(1953)所収。(今井肖子)


November 21112014

 梟を眺め梟から眺め

                           原田 暹

は鋭いカギ状の短い嘴と強力な爪のある脚を持った夜行性の肉食鳥である。だから普段は動物園くらいでしか見られないが、一度利根川河畔で見たことがある。その時は目の前でカラスと組んず解れずの大格闘をしていた。何を間違ってか、昼間その姿を見せてしまったのである。カラスは夜間は動けなく、夜行性の梟に度々襲われるらしい。特に子育て中の子ガラスは標的である。それやこれやで昼間は立場が逆転、勝負は圧倒的にカラスが優勢となる。揚句は梟が2回、眺めが2回でこれを「を」と「から」で結んで出来上がった。確かに梟を見ているとあのまん丸い梟の目からも見られているのかも知れないと思う。この作者と梟の間合いがどこか可笑しい。『天下』(1998)所収。(藤嶋 務)




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