パ・リーグはもつれてるなあ。気になって、そわそわしてばかり。(哲




2014ソスN10ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 20102014

 よく見える幼子に見せ稲の花

                           矢島渚男

さな稲の花を見ている。いや、見ようとしている。が、おそらく少し老眼気味になってきた目には、細部までははっきりと見えないのだろう。そこでかたわらにいた幼い子にそれと教えて、「これが稲の花だよ。よく見ておきなさい」と指さしている図だと思う。むろん幼い子が稲の花に関心を抱くことはなかろうが、作者はとにかく「よく見える目」の持ち主に、見せておきたかったのである。つまり作者は幼子の目に映じているはずのくっきりした花の姿を想像して、その想像から自分にもくっきりと見えている気分にひたりたかったということだ。ちょつとややこしいけれど、この種の視覚的な行為に限らず、五感すべてにおいて、老いてきた身にはこのような衝動が走りがちになる。老いた人と幼い人との交流において、私たちはしばしば幼い人の行為を微笑をもって見守る老人の姿を見かける。あれはまたしばしば、掲句のような状態を受け入れようとしているが故の微笑なのだ。老いを自覚してきた私には、そのことの幸せと辛さとが分かりはじめている。『延年』(2003)所収。(清水哲男)


October 19102014

 袖のやうに畑一枚そばの花

                           川崎展宏

ばの花弁は白い。その真ん中は、赤い雄しべが黄色い雌しべを囲んでいる。作者は、そば畑を着物の袖にたとえています。それは、そば畑の面積がささやかであることを伝えていると同時に、着物の袖をイメージさせることで、白く咲く花弁の中の赤と黄色を繊細な生地の柄として伝えています。直喩を使うということは、単なる言葉の置き換えではなく、むしろ、対象そのものに対して写実的に接近できる方法でもあることを学びます。掲句のそば畑は、家族で新そばと年越しそばを楽しむほどの 収穫量なのかもしれません。「畑一枚」という語感が「せいろ一枚」にも通じて平面的で、そばの花咲く畑を袖という反物にたとえた意図と一貫しています。なお、森澄雄に、「山の日の照り降り照りや蕎麦の花」があり、山脈が近い高原の気象の変化を調べとともに伝えています。掲句は平面的な静の句ですが、こちらは、空間の中で光が移ろいます。『夏』(1990)所収。(小笠原高志)


October 18102014

 なによりも会いたし秋の陽になって

                           佐々木貴子

秋の日差し、遠くなつかしいその色合いと肌ざわりは自分の中で季節が巡ってくるたびに、ああ、と思いあれこれ作っては消えるテーマの一つになっている。この句は、なかなか言葉にならなかった一コマを浮かび上がらせてくれた気がして、そんな気がしたことに自分で驚いた句である。会いたい、という主観が前面に出ているし、一文字が語りすぎるからなるべく、陽、ではなく、日、を使う方がよい、と言われて来たのだがそれらを超え、光の色が広がる。なによりも、と、会いたし、のたたみかける強さと、陽、の持つ明るさがありながら、そこに広がる光は不思議なほど静かに心象風景とシンクロしたのだが、読み手によって印象が違うと思われ、それも魅力だろう。『ユリウス』(2013)所収。(今井肖子)




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