台風が過ぎ去ってほっと後ろをふり向いたら、また新しい奴が…。(哲




2014ソスN10ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 08102014

 屋根草も実となる秋となりにけり

                           巌谷小波

ほど草深い田舎へ行けば、あるいはこうした風景をまだ見ることができるかもしれないけれど、今や昔懐かしい風景になったと言っていい。古びた藁屋根(屑屋根とも呼ばれた)に何かの草がはえて、元気よく成長して風に吹かれているのを見たことがある。(風流などと言う勿れ。電子辞書を引いても、「藁屋根」「屑屋根」という言葉は出てこない)秋になればさらに実をつけるものもある。昔の田舎では珍しくなかった風景を、ユーモラスにとらえている。そういう家では、屋根にはえる草などにかまっていられなかったのだろう。ユーモラスでのんびりとした時間が、屋根草にも実をつけていたのだ。10年ほど前に韓国を旅してある農村を通りかかった際、藁屋根に大きなカボチャがどっしりと、いい色合いで実っていたのを目撃して、思わずワァーと声をあげた。「……なる……なりにけり……」のリズムが快い。小波の句には「桜さく日本に生まれ男かな」があり、芝増上寺の句碑に刻まれているという。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 07102014

 竿の手の不意に暮れたる子持鮎

                           田草川㓛子

月下旬から10月にかけて、鮎は産卵のため川を下る。この時期の卵を抱いた鮎は、みずみずしい夏の鮎とは違った楽しみがある。夢中になっている時間は、思っているよりずっと早く過ぎている。ふと我に返ると竿を握る手元にも、川面にも暗闇が広がって、一瞬キツネにつままれた心地となる。時計を確かめてみても、確かにその暗さに見合った時刻であるが、それでもまだ「そんなはずはない」といういぶかしく思う気持ちが「不意に」に込められる。つるべ落としの秋の日の実感とともに、魚籠に入っている釣果が子持鮎だという哀れも感じられ、釣り人は荒々しく川音に包まれる。〈新米を真水のごとく掬ひけり〉〈稲の束抱へて胸の濡れにけり〉『弓弦』(2014)所収。(土肥あき子)


October 06102014

 包丁を研ぎ台風を待ちゐたり

                           座間 游

象情報に台風接近中とあれば、多くの人は身構える。しかし、身構えたところで、たいていの人には特に対処する方策もない。庭の植木鉢を片づけたり、日頃気になっている家屋の弱そうなところを点検したりすることで、あとはすることもない。本番を待つばかりとなる。やって来る台風の強度も正確には判断しかねるから、そこはこれまでの経験に頼るしかないからだ。そんななかで、作者は包丁を研ぎすませた。別に大雨や大風への備えとは無関係なのだが、とにかくこうして台風を待っている。でも、これは決して頓珍漢で滑稽な備えとは言いきれないだろう。おそらく作者は、日頃から包丁を研いでおかねばと気になっていたのである。そこで台風への「備え」という意識が、ごく自然に無関係な包丁研ぎへとおのれを駆り立ててしまったのだ。これに類似したことは、日常的ないろいろな場面で起きてくる。まことに、人間愛すべし…ではないか。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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