台風一過、紺碧の空がひろがる。思わず深呼吸をしたくなる。(哲




2014ソスN10ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 07102014

 竿の手の不意に暮れたる子持鮎

                           田草川㓛子

月下旬から10月にかけて、鮎は産卵のため川を下る。この時期の卵を抱いた鮎は、みずみずしい夏の鮎とは違った楽しみがある。夢中になっている時間は、思っているよりずっと早く過ぎている。ふと我に返ると竿を握る手元にも、川面にも暗闇が広がって、一瞬キツネにつままれた心地となる。時計を確かめてみても、確かにその暗さに見合った時刻であるが、それでもまだ「そんなはずはない」といういぶかしく思う気持ちが「不意に」に込められる。つるべ落としの秋の日の実感とともに、魚籠に入っている釣果が子持鮎だという哀れも感じられ、釣り人は荒々しく川音に包まれる。〈新米を真水のごとく掬ひけり〉〈稲の束抱へて胸の濡れにけり〉『弓弦』(2014)所収。(土肥あき子)


October 06102014

 包丁を研ぎ台風を待ちゐたり

                           座間 游

象情報に台風接近中とあれば、多くの人は身構える。しかし、身構えたところで、たいていの人には特に対処する方策もない。庭の植木鉢を片づけたり、日頃気になっている家屋の弱そうなところを点検したりすることで、あとはすることもない。本番を待つばかりとなる。やって来る台風の強度も正確には判断しかねるから、そこはこれまでの経験に頼るしかないからだ。そんななかで、作者は包丁を研ぎすませた。別に大雨や大風への備えとは無関係なのだが、とにかくこうして台風を待っている。でも、これは決して頓珍漢で滑稽な備えとは言いきれないだろう。おそらく作者は、日頃から包丁を研いでおかねばと気になっていたのである。そこで台風への「備え」という意識が、ごく自然に無関係な包丁研ぎへとおのれを駆り立ててしまったのだ。これに類似したことは、日常的ないろいろな場面で起きてくる。まことに、人間愛すべし…ではないか。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


October 05102014

 薪能観てきて籠る秋簾

                           石原八束

台を観て、人生が変わることが稀にあります。それは、一時的な変化であったとしても、記憶は強く残ります。作者のように、観劇の感動を句に残しているならなおさらでしょう。薪能では、観る側の角度によって舞台がゆらいでみえることがあります。炎の熱を通すと役者はかげろうの中で舞っているようにみえる瞬間があります。謡が轟き、鼓は夜空へと響き渡り、作者その余韻を抱えたまま帰途に着きました。家人への挨拶もそぞろです。夢幻能の中に入り込み、その夢から醒めないために、自身を簾の内という異界に籠もらせます。それは、舞台を反芻しながら、繭が糸をつむいでいくような時間を過ごすことでしょう。観劇した感動を発散せず、身の内へと籠めていく能動性。秋簾の中に、上手の見者の姿を観ます。『白夜の旅人』(1984)所収。(小笠原高志)




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