台風。大昔の東京では、釘を打つ音がそこかしこで聞こえたものだ。(哲




2014ソスN10ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 05102014

 薪能観てきて籠る秋簾

                           石原八束

台を観て、人生が変わることが稀にあります。それは、一時的な変化であったとしても、記憶は強く残ります。作者のように、観劇の感動を句に残しているならなおさらでしょう。薪能では、観る側の角度によって舞台がゆらいでみえることがあります。炎の熱を通すと役者はかげろうの中で舞っているようにみえる瞬間があります。謡が轟き、鼓は夜空へと響き渡り、作者その余韻を抱えたまま帰途に着きました。家人への挨拶もそぞろです。夢幻能の中に入り込み、その夢から醒めないために、自身を簾の内という異界に籠もらせます。それは、舞台を反芻しながら、繭が糸をつむいでいくような時間を過ごすことでしょう。観劇した感動を発散せず、身の内へと籠めていく能動性。秋簾の中に、上手の見者の姿を観ます。『白夜の旅人』(1984)所収。(小笠原高志)


October 04102014

 ひらがなの名のひととゆく花野かな

                           松本てふこ

野は、華やかだけれどもどこか淋しい、というイメージをまといながら概ねさりげなく詠まれる。そして、読み手それぞれの花野はまちまちでも、はなの、というやわらかい音と共に広がる風景に大差はなく、ああそういう感じだな、と共感を生む。だが、掲出句は少し違っている。そういう感じだな、と客観的に鑑賞するような感覚ではなく、すぐに花野の中を歩いているような心地がするのだ。ひらがなの名のひととゆく、という一つの発見は、花野の風の感触と匂い、明るさとひとことでは言いようのない光の色、それらをごく自然に浮かび上がらせ、読み手は秋に包まれる。「俳コレ」(2011・邑書林)所載。(今井肖子)


October 03102014

 鵙遠音魚板打ちても応答なし

                           景山筍吉

の甲高い鳴き声は遠くまで届く。澄んだ秋の空気の中訪れた禅寺には人気が無い。どこか奥まった所でお勤めをしているのかも知れない。柱を見ると魚板と小槌がぶら下がっている。これが呼び鈴代わりかと早速叩いてみる。手応えのある音の割には中からの応答(いらへ)が無い。どこか心細くなる。寺へ悩み事の相談に訪ねたのであれば尚更のこと。因みに景山筍吉が敬虔なクリスチャンであった事を思うと、問うて答えのない不安な心を見てしまうのである。神仏に声は無い。他に<繰り返へす凡愚の日々の蚊遣かな><友情の嘘美しき月の道><キリシタン処刑跡なり蛇の衣>など。『白鷺』(1979)所収。(藤嶋 務)




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