今日から、阪神は9連戦。一つも落さない気構えでいかねば。(哲




2014ソスN9ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0992014

 良夜かな鱏の親子の舞ひ衣

                           鍵和田秞子

日が十五夜だったが、満月は今日。正確にいうと満月は午前10時38分の月なので、昨夜も、今夜もほとんど満月という状態ではある。鱏はひらべったい菱形の体に長い尾を持ち、波打つように泳ぐ。そのなかでも最大のオニイトマキエイは、ダイバーたちの憧れの生きものである。マンタとも呼ばれるオニイトマキエイは、青い海をひらひらとはばたくように泳ぐ。マンタは一列に連なって移動することもあり、それはまるで海中の渡り鳥のような美しさである。大きな月が海を照らせば、竜宮城までその明るい光りが届いていることだろう。ヒラメより断然迫力のある鱏の舞いが披露されているかもしれない。〈記憶から記憶へ紅葉始りぬ〉〈かなしみは眠りを誘ふ黒葡萄〉『濤無限』(2014)所収。(土肥あき子)


September 0892014

 しとしては水足す秋のからだかな

                           矢島渚男

の句を読んで思い出した句がある。「人間は管より成れる日短」(川崎展宏)。人間の「からだ」の構造を単純化してしまえば、たしかに「管(くだ)」の集積体と言える。記憶に間違いがなければ、もっと単純化して「人間は一本の管である」と言ったフランスの詩人もいた。つまり、人間をせんじ詰めれば、口から肛門までの一本の管に過ぎないではないかというわけだ。そんな人間同士が恋をしたり喧嘩をしたりしていると思えば、どこか滑稽でもあり物悲しくもある。飲む水は、身体の管を降りてゆく。夏の暑さのなかでは実感されないが、涼しい秋ともなれば、降りてゆく水の冷たさがはっきりと自覚される。飲む目的も夏のように強引に渇きを癒すためではなく、たとえば薬を飲むときだとか、何か他の目的のためだから、ますます補給の観念が伴ってくる。だからこの句の着想は、秋の水を飲んでいるときに咄嗟に得たものだろう。一見理屈のかった句のように見えるけれど、実際は飲み下す水の冷たさの実感から成った句だと読んだ。実感だからこその、理屈をこえた説得力がある。『天衣』(1987)所収。(清水哲男)


September 0792014

 芒挿す光年といふ美しき距離

                           奥坂まや

月を鑑賞するときに、芒(すすき)を挿す。よい風習と思います。ただし、中秋の名月の日、晴れているとはかぎりません。また、都市生活者なら、月を展望できる住環境をもつ人は、少数でしょう。それでも掲句を読むと、「芒挿す」という行為に意味を感じます。これは、月に向けて、自身の位置を示して、月と自身との直線距離を確定する動作です。ここを起点にして、時間と空間の美学が始まります。ふつう、一万光年などという使われ方をする「光年」を単独で使い、物理的な単位とし て提示しています。「光年」という時間の単位は、そのまま宇宙空間に存在する天体との距離を示します。奥坂さんは、そこに「美しき」を形容している。たしかに、宇宙物理学は、美学に近いところがある学問です。それもふまえて、掲句は、何億年もかかる距離を旅する光そのものが持っている性質に対して、「美しき」といいます。それは、宇宙的な速度を輝きという現象で見せてくれる性質です。名月の手前に芒を置く風習は、月を借景とするシンプルな生け花のようでもあり、家の中に、月を客として招き入れる風雅な遊びでもあるでしょう。明晩は、芒を挿してみようかな。『縄文』(2005)所収。(小笠原高志)




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