東京は雨降りの予報。豪雨でこそないけれど、よく降るなあ。(哲




2014ソスN9ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0792014

 芒挿す光年といふ美しき距離

                           奥坂まや

月を鑑賞するときに、芒(すすき)を挿す。よい風習と思います。ただし、中秋の名月の日、晴れているとはかぎりません。また、都市生活者なら、月を展望できる住環境をもつ人は、少数でしょう。それでも掲句を読むと、「芒挿す」という行為に意味を感じます。これは、月に向けて、自身の位置を示して、月と自身との直線距離を確定する動作です。ここを起点にして、時間と空間の美学が始まります。ふつう、一万光年などという使われ方をする「光年」を単独で使い、物理的な単位とし て提示しています。「光年」という時間の単位は、そのまま宇宙空間に存在する天体との距離を示します。奥坂さんは、そこに「美しき」を形容している。たしかに、宇宙物理学は、美学に近いところがある学問です。それもふまえて、掲句は、何億年もかかる距離を旅する光そのものが持っている性質に対して、「美しき」といいます。それは、宇宙的な速度を輝きという現象で見せてくれる性質です。名月の手前に芒を置く風習は、月を借景とするシンプルな生け花のようでもあり、家の中に、月を客として招き入れる風雅な遊びでもあるでしょう。明晩は、芒を挿してみようかな。『縄文』(2005)所収。(小笠原高志)


September 0692014

 青空とそのほかは蘆の葉の音

                           林紀之介

の蘆はちょうど今頃か、水辺にまだ青々と広がっているのだろう。真夏の青蘆の潔さは消えかけていて、渡る風音は少し乾いている。日々澄んだ青さをとり戻しつつある空、目の前には蘆原が広がり、作者はその風音の中に立っている。この句を一読した時不思議な感覚を覚えるのは、そのほかは、が視覚と聴覚をつないでいるからかもしれないが、それが違和感ではなく心地よい余韻を生んでいるのだ。空の青はまず蘆原の青につながり、そこにただ、葉の音、と言って風を感じさせることで、五五七のリズムとともに秋の爽やかな静けさが広がってゆく。<いい声の物売りがゆく鰯雲><近々と遠くの山の見えて秋>。『裸木』(2013)所収。(今井肖子)


September 0592014

 いぶしたる爐上の燕帰りけり

                           河東碧梧桐

葺の古民家が目に浮かびます。真っ黒に煤けた大黒柱があって爐(いろり)があってボンボン時計がある。そんな爐上に何故だか燕が巣を作った。成り行きながら雛がかえって巣立ちもした。この家の者も愛しみの眼差しを向けて日々雛の成長を楽しみにする。時々寝言で鳴く「土食って渋ーい、渋ーい」に寝付かれぬ夜もある。何匹かの子燕の特徴を識別して名前など付けてしまう。そして燕たちが自分の家族とも思はれて来る頃その日は来る。見知らぬ遠い国へ旅立ってしまうのだ。後にはぽかんとした空の巣がそこにあるだけ。誰にでもやって来るその日はある。『碧梧桐句集』(1920)所収。(藤嶋 務)




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