午後余白句会。兼題は小長谷清実出題「夏休み』「坂(要季語)」。(哲




2014ソスN8ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1682014

 上層部の命令にして西瓜割

                           筑紫磐井

西瓜割、そういえば一度もやったことがないので、あらためて想像してみる。目隠しされてやや目が回った状態で、周りの声を頼りに西瓜に近づき、棒を思いきり振りおろして西瓜を割るというか叩き潰す。場合によっては見当違いの方に誘導され、空振りしている姿をはやされたり、それはそれで余興としては盛り上がるのだろうが、割れた後の西瓜の砕けた赤い果肉と同様ちょっと残酷、などと思っていたら、西瓜割協会なるものがあり、西瓜に親しむイベントとして西瓜の産地を中心に競技会が開催されているらしい。消費量と共に生産量の減少している西瓜に親しむことが目的というが、そうなると西瓜割の危うさや残酷さは無くなる。重たい西瓜を用意するのも後始末をするのも命令された方であり、思いきり棒を振りおろす瞬間によぎる何かが怖い。『我が時代』(2014)所収。(今井肖子)


August 1582014

 鳥が鳥追い払ひたる茂りかな

                           望月 周

語は「茂り」で夏。小鳥来る秋の前である。小鳥達にとって子育ての最中だろうか縄張りの茂りを必死で防衛中である。縄張りといえば鳥に限らず魚の鮎なども知られている。植物も群生という事があるからひょっとすると生きるものは多かれ少なかれ縄張りを持つのかも知れない。縄張りはそれを守る戦いによって実現している。生物である人間もまた国家という縄張りを持つ。平和を祈りつつも地球上に縄張りを守る紛争が絶えた試しはない。何か哀しい気もするが人はこうした哀しい性からは免れられないのだろう。それでもこの水の惑星に愛しい命を輝かせている。今日は終戦記念日。俳誌「百鳥」(2013年10月号)所載。(藤嶋 務)


August 1482014

 吾輩にやあと海水浴の客

                           田辺須野

年は漱石が『こころ』の連載を始めて100年目の記念の年だそうで、朝日新聞に再連載されている『こころ』を読むことから一日が始まる。7月19日には船団の会主催で『東京漱石百句』フォーラムが東京神楽坂で行われた。漱石にまつわる一句も同時に募集し、漱石の作品の題やエピソードを詠みこんだ句が多数披露された。掲載句も『こころ』の冒頭で主人公が先生と出会う鎌倉の海岸の場面を思い起こされる。先生が「やあ」と片手をあげて合図する姿と「吾輩は猫である」の「にやあ」が読み方によって浮上してくる。現実の場面が物語世界の言葉を織り込むことで膨らみを増す、その重層性は読み手側にも共通知識があってこそ理解される。そんな俳句世界が芭蕉の時代からあった。身近なことを題材に詠む俳句と並行して、このような試みがどんどん句集に織り込まれても面白いのではと思う。『こきくくるくれこよ』(2014)所収。(三宅やよい)




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