いくら寝ても寝たりない。原稿も書けない。こんな夏ははじめてだ。(哲




2014ソスN8ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0482014

 蝉時雨何も持たない人へ降る

                           吉村毬子

ま蝉時雨に降りこめられた格好で、これを書いている。午後一時半。気温は33度。先ほどまで35度を越えていた。何度か読んで、この句は二通りに解釈できると思った。一つは全体をスケッチのように捉えて、文字通りに何も持たない手ぶらの人が、激しい蝉時雨のなかで、暑さにあえいでいる図。しかしこの人は、あえいではいるけれど、へこたれてはいない。暑さをいずれはしのいでやろうという心根がかいま見える。もう一つの解釈は、何も持たないことを比喩的に捉えて、たとえば資産的にもゼロの状態にあり、血縁などももはや無し。世間とはほとんど無縁というか孤立状態に追い込まれていて、少し普遍化してみれば、この状態は多くの老人のそれといってよいだろう。そんな老人に、もはや蝉時雨に抗する元気はない。真夏の真昼どき、蝉時雨に追い立てられるようにして歩いていく。それを見ている作者のまなざしには、憐憫ではなくてむしろ愛惜に近い情がこもっている。誰にとっても、明日は我が身なのである。『手毬唄』(2014)所収。(清水哲男)


August 0382014

 雲は王冠詩をたづねゆく夏の空

                           仙田洋子

者は、稜線を歩いているのでしょう。標高の高い所から、雲を王冠のように戴いている山を、やや上に仰ぎ見ているように思われます。「雲は王冠」の一言で詩に出会えていますが、夏の空にもっともっとそれをたづねてゆきたい、そんな、詩を求める心がつたわります。句集では、掲句の前に「恋せよと夏うぐひすに囃されし」、後に「夏嶺ゆき恋する力かぎりなし」があり、詩をたづねる心と恋する力が仙田洋子という一つの場所から発生し、それを率直に俳句にする業が清々しいです。また、「橋のあなたに橋ある空の遠花火」「国後(クナシリ)を遥かに昆布干しにけり」といった、彼方をみつめる遠い眼差しの句がある一方で、「わが胸に蟷螂とまる逢ひに行く」「逢ふときは目をそらさずにマスクとる」「雷鳴の真只中で愛しあふ」といった、近い対象にも率直に対峙する潔い句が少なくありません。詩に対する、恋に対する真剣さが、瑞々しさとして届いています。ほかに、「踏みならす虹の音階誕生日」。『仙田洋子集』(2004)所収。(小笠原高志)


August 0282014

 風鈴を鳴らさぬやうに仕舞ひけり

                           齋藤朝比古

ょっとした瞬間の心理である。風鈴をはずして、別に鳴っても構わないのだけれどなんとなく、鳴らさないようにそっとしまうのだ。昔は、歩いていてどこからか風鈴が聞こえてくることもあったし、祖母の部屋の窓辺には風鈴付きの釣忍が吊るしてあったが、そういえば最近はほとんど聞くことがない。確かにこの暑さだと、日中は窓を閉め切ってクーラーをつけて過ごすから風鈴の出番がないのかもしれない。同じ作者に<風鈴の鳴りて遠心力すこし >。作者のように、せめて夕風のふれる風鈴の音色を楽しむ余裕がほしいなと思いながら、遠い記憶の中の風鈴を聞いている。『塁日』(2013)所収。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます