暑い暑いとボヤいているうちにまた日曜日がやってきた。(哲




2014ソスN8ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0382014

 雲は王冠詩をたづねゆく夏の空

                           仙田洋子

者は、稜線を歩いているのでしょう。標高の高い所から、雲を王冠のように戴いている山を、やや上に仰ぎ見ているように思われます。「雲は王冠」の一言で詩に出会えていますが、夏の空にもっともっとそれをたづねてゆきたい、そんな、詩を求める心がつたわります。句集では、掲句の前に「恋せよと夏うぐひすに囃されし」、後に「夏嶺ゆき恋する力かぎりなし」があり、詩をたづねる心と恋する力が仙田洋子という一つの場所から発生し、それを率直に俳句にする業が清々しいです。また、「橋のあなたに橋ある空の遠花火」「国後(クナシリ)を遥かに昆布干しにけり」といった、彼方をみつめる遠い眼差しの句がある一方で、「わが胸に蟷螂とまる逢ひに行く」「逢ふときは目をそらさずにマスクとる」「雷鳴の真只中で愛しあふ」といった、近い対象にも率直に対峙する潔い句が少なくありません。詩に対する、恋に対する真剣さが、瑞々しさとして届いています。ほかに、「踏みならす虹の音階誕生日」。『仙田洋子集』(2004)所収。(小笠原高志)


August 0282014

 風鈴を鳴らさぬやうに仕舞ひけり

                           齋藤朝比古

ょっとした瞬間の心理である。風鈴をはずして、別に鳴っても構わないのだけれどなんとなく、鳴らさないようにそっとしまうのだ。昔は、歩いていてどこからか風鈴が聞こえてくることもあったし、祖母の部屋の窓辺には風鈴付きの釣忍が吊るしてあったが、そういえば最近はほとんど聞くことがない。確かにこの暑さだと、日中は窓を閉め切ってクーラーをつけて過ごすから風鈴の出番がないのかもしれない。同じ作者に<風鈴の鳴りて遠心力すこし >。作者のように、せめて夕風のふれる風鈴の音色を楽しむ余裕がほしいなと思いながら、遠い記憶の中の風鈴を聞いている。『塁日』(2013)所収。(今井肖子)


August 0182014

 葭切や渡船で嫁に来しといふ

                           山本あかね

切は大小の2種がいてオオヨシキリ(全長18cm程度)とコヨシキリ(全長13cm程度)に区別される。オオヨシキリは、その複雑な囀りの中に「ギョウギョウシ、ギョウギョウシ」と聞きなせるため漢字で「行々子」と言われ俳人歌人の好むところである。また好んで葦原に棲むことからアシキリ、そのアシ(悪し)のゲンをかついで(良し)ヨシキリになったとも言われている。両鳥は混ざることなく葭原の内部と外周部で棲み分けをしている。昔交通網も発達しない頃には水路の方が便利でこの葭原を縫って嫁入り道具を満載して嫁ぐ風習の地域が各所にあったという。ひょっとすると花嫁には「ギョウギヨクシ(行儀良くし)、ギョウギヨクシ」と聞こえていたかも知れない。のんびりとした水郷の中に何か忙しげな鳴き声に耳を澄ませば、命の出し惜しみなんぞするもんかとも教えられる。『大手門』(2007)所収。(藤嶋 務)




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