子供の夏休みの日記じゃないけれど「昨日と同じ」と書きたい日々。(哲




2014ソスN7ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2672014

 道路鏡の中の百日百日紅

                           阿部正調

々車で通る道が、ある時百日紅の並木道になった。花が咲いていないときは気づかなかったが真夏、久しぶりに通ってびっくり、どうしてこんな暑苦しい並木道にしようと思ったのだろう、と驚いてから、いや待てよピンクや白の花の房が風に揺れて涼しげだと思う人もいるのかも、と思い直した。そのものに対する記憶が固定概念になっていることは花に限らずある。子どもの頃住んでいた家の前になだれるようにたくさんの百日紅が毎年咲いて、あのやや濃いめのピンクは暑さの象徴だった。いつ見てもたくさん咲いていてついやれやれと思ってしまう。そんな百日紅を夏の間中映し続けるカーブミラーが作者の身近にあるのだろう。来る日も来る日も、丸い凸面鏡いっぱいにピンクの花が映っている。本来は死角にあってこのミラーが無ければ目に留まることも無いこの花を親しく思っているか、暑苦しく思っているかは作者の記憶次第だが、百日紅の花はカーブミラーに不思議と似合う。『土地勘』(2014)所収。(今井肖子)


July 2572014

 老人よどこも網戸にしてひとり

                           波多野爽波

は老いる。必ず、老いる。そして、老いはしばしば孤独を伴うものである。配偶者が亡くなり、子供も訪ねてくることなく、日々、一人で生活せざるを得ない場合もある。爽波がここで描いた老人も、また、ひとりである。「老人よ」の呼びかけが、作者の老人への共感を表している。どこも、網戸にしてというのは、涼しげなイメージを浮かべるかも知れないが、ここでは、窓やガラス戸など、家の内と外とを隔てている境界を出来る限り取り外し、網戸によって外界に繋がろうとする、老人の意識下の願望が感じられる。そして、下五の「ひとり」という呟きのような結び。爽波の句で、「老い」の心境を詠んだ句は、ほとんど見られない。それだけに、心に残る一句である。『一筆』(平成2年)所収。(中岡毅雄)


July 2472014

 どの部屋に行つても暇や夏休み

                           西村麒麟

い昔に味わった夏休みの退屈さが実感を持って思い出される句。毎日毎日、窮屈な学校から解放されて朝寝はし放題。漫画を読もうが朝から家を飛び出して遊びに行こうが、テレビを見ようが好きにしていい天国のような生活も二,三日たてば飽きてくる。子供の出来ることなんて限られている。朝ご飯を食べたらする事もないので二階に上がってみたり、座敷で寝転んでみたり。部屋を変えてみても暇なことに変わりはなく、午後の時間は永遠かと思えるほど。掲句を読んで、子供の頃嬉しいはずの夏休みがだんだんつまらなくなってゆく漠然とした不満を言い当てられたら気がした。季節の巡りは螺旋を描いて毎年やってくる。遠い日の自分の中の名付けがたい感情をすくい取って俳句にする。その細やかな視線に共感した。『鶉』(2013)所収。(三宅やよい)




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