子供たちは夏休み。私のころは退屈だった。家族旅行など経験なし。(哲




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July 2272014

 夏あざみ真昼間も星動きつつ

                           塩野谷仁

しい花に惹かれて伸ばした手に葉の鋭いとげが刺さることから、「欺(あざむ)く」が語源といわれるあざみ。夏のあざみは一層猛々しく茂る葉のなかで守られながら、愛らしい玉房飾りのような花を天に向かって開く。色彩も青紫、深紅など目を引くあざやかなものが多いが、それらはどれも華美というよりどこか悲しみをまとって咲いているように思われる。鋭いとげに守られたあざみの孤独が、青空の奥にしまいこまれた星を感じることで静かに伝わってくる。〈緑陰を出て緑陰に入り休日〉〈虹二重人影にひと追いつけず〉『私雨』(2014)所収。(土肥あき子)


July 2172014

 喪に服す隣の庭の百日紅

                           宮本郁江

の句と同じ実景のなかにいたことがある。三年ほど前に、父と弟、そして母をたてつづけに失ったころのことだ。私の仕事場の窓からは、まさに隣の庭(正確には小さな児童公園)に「百日紅」が植わっていて、毎夏咲いている様子を楽しむことができる。真夏の暑さに耐え抜いて長期間咲く百日紅は、よく見ると一つ一つはそんなに強靭そうな花ではないのだが、咲いてかたまりになったところを見上げると、ふてぶてしいくらいに強そうに見える。作者が失った人は誰かはわからないけれど、「喪に服す」という決意のような言いきり方に、個人を偲ぶ気持ちの深さが感じられる。この世を去っていったかけがえのない命と、いまを盛りと咲き誇る花の命と……。嫌でもこの対比に心をとらわれざるを得ない作者の、戸惑いのなかにも自然の摂理を受容している一種茫とした感覚が読者にも染み入ってくるようだ。これをしも、自然の癒しの力と言うべきなのだろうか。わからない。『馬の表札』(2014)所収。(清水哲男)


July 2072014

 夕立ちや小言もにぎる江戸かたぎ

                           小沢昭一

年前、惜しまれて逝去した俳優・小沢昭一の『俳句で綴る変哲半生記』(2012)所収です。序文に、「最初は俳句を口実に集まって、遊んでいるような心持ちでしたが、そのうちだんだん句作が面白くなってまいりました。それは、俳句を詠むことで、本当の自分と出会えることに気付いたからです。今までに詠んだ句を集めましたら、およそ四千にもなりました。改めて眺めてみますと、どの句にも『自分』というものがチラチラと出ているように思えます。特に『駄句』にこそ私らしさ が現れておりますので、あれこれ選ばず、恥ずかしながら詠んだ句全てを載せさせていただきました」。俳句を始めた昭和四十四年から、月順に配列されているので、タイトル通り、俳句で綴られた半生記です。掲句は平成九年七月の作。行きつけの店の外は夕立ちで、他に客が入ってくる気配もありません。主人の小言は、相変わらずわさびが利いて辛口です。にぎられたら即座に口にするのが江戸前のならい。主人がにぎった鮨を客の小沢はすぐに手にとり口にする。主人がにぎり客が手にとり口にする。あうんの呼吸で、これがテンポよくくり返されていたと想像します。主人は江戸っ子ですから、舌の切れ味がよい。浅草橋で売っている佃煮のような塩っ辛い味に親しんでいるからでしょう。夕立ちも、小言 も、にぎる手ぎわもそれぞれみな短くて、これもこの句が小気味よい理由です。なお、「夕立ちや」で切ることで、外界との遮断を表して、主人と客との距離がはっきりしてきます。(小笠原高志)




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