七夕ですが、新暦には似合いませんね。今宵も雨模様です。(哲




2014ソスN7ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0772014

 ヘッドホンのあはひに頭さみだるる

                           柳生正名

ッドホンというのだから、たしかに「あはひ(あいだ・間)」には「頭」がある。しかし私たちは普通、そこには「頭」ではなく「顔」があると認識している。だからわざわざ「頭」があると言われると、理屈はともかく、「え?」と思ってしまう。そしてこの人は、顔を見せずに頭を突きだしているのだろうと想像するのだ。つまり、ヘッドホンを付けて下うつむいている人を思い浮かべてしまうというわけだ。ヘッドホンからはどんな音楽が聞こえているのかはわからない。が、さながら「さみだれ」のように聞こえている音楽が、その人の周囲に降っている五月雨の音に、溶け込むように入り交じっているようである。そう受け取ると、おそらくは青年期にあるその人の鬱屈した心情が思われて、読者はしんと黙り込むしかないのであろう。『風媒』(2014)所収。(清水哲男)


July 0672014

 合掌の村に青田の迫りくる

                           宮本郁江

川郷の夏でしょうか。村全体を見晴らしのよい地点から眺めているようです。「迫りくる」という動詞は、何者かがある対象に向かって迫ってくることですが、掲句を文字通りに読むと、青田の生育が活発で、合掌造りの村全体を席巻している状態であるととることができます。この場合、作者の立ち位置はある程度高所から、村全体を平面的に眺めている見方になります。ところで、合掌造りの屋根は、日本では稀な鋭角です。一般的に、キリスト教系の建築物は先鋭的な屋根を持つのに対し、神社仏閣はそれよりも鈍角的に広がる屋根を持っています。前者は天に向かう意志を表し、後者は内側を庇護する傾向にあるとも考えられますが、日本の建築では、鋭角の屋根は例外であったことは事実です。それが、宗教的な観念からではなく、豪雪地帯という風土条件からもたらされた形態であるというところに日本らしさを感じます。ここで、合掌造りの鋭角的な屋根を意識に入れてもう一度掲句を読み直してみます。すると、平面的に広がっている青田が、読む者に向かって垂直的に迫ってきます。合掌の鋭角的な屋根と、稲の先鋭的な葉先が、天に向かって迫っています。絵画でいうなら、ビュッフェではなく、棟方志功でしょう。『馬の表札』(2014)所収。(小笠原高志)


July 0572014

 大日向あぢさゐ色を薄めけり

                           上野章子

の当たる場所を、日向、ととらえるのは概ね冬だろう。ひなた、というやわらかい音は、強くて濃い夏の日差しの感じとはやや違う。さらに大日向となると、そこにある光はさほど強くはないが広々と遍くゆきわたっている。作者は、たくさんの紫陽花がこんもりとまさに咲きに咲いたり、という感のある場所に居て紫陽花を見ている。雨の日には水の色を湛えていた紫陽花はことごとくしおしおと少し悲しげに見え、そこにどこか白く湿った日があたっているのだ。その真夏とは違う日の色がまさに、大日向、なのだろう。虚子の六女である作者、その句柄は天真爛漫といわれるが自由でありながら本質をとらえ平明だ。<あるだけの団扇とびとび大机><浜茶屋の夏炉に軽い椅子寄せて><夏蝶の去り残る花色いろいろ>。『桜草』(1991)所収。(今井肖子)




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