東京地方、梅雨の晴れ間も今日までのようだ。(哲




2014ソスN6ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1762014

 でで虫の知りつくしたる路地の家

                           尾野秋奈

で虫、でんでん虫、かたつむり、まいまい、蝸牛。この殻を背負った生きものは、日本人にとってずいぶん親しい間柄だ。あるものは童謡に歌われ、またあるものは雨の日の愛らしいキャラクターとして登場する。生物学的には殻があるなし程度の差でしかないナメクジの嫌われようと比較すると気の毒なほどだ。雨上がりをきらきら帯を引きながらゆっくり移動する。かたつむりのすべてを象徴するスローなテンポが掲句をみずみずしくした。ごちゃごちゃと連なる路地の家に、それぞれの家庭があり、生活がある。玄関先に植えられた八つ手や紫陽花の葉が艶やかに濡れ、どの家もでで虫がよく似合うおだやかな時間が流れている。〈クロールの胸をくすぐる波頭〉〈真昼間のなんて静かな蟻地獄〉『春夏秋冬』(2014)所収。(土肥あき子)


June 1662014

 夏帽子肘直角に押さへをり

                           梶川みのり

が強いので、飛ばされないように手で帽子を押さえている。それだけのことを詠んでいるのだが、「肘直角に」が効いている。すらりと伸びた白い腕が、風のなかでしなやかに、しかも直角に位置していて、何気ない仕種にもかかわらず、健康的で伸びやかな若い女性のありようを一言で言い止めている。作者は女性だが、この視点はむしろ男のそれかもしれない。いずれにしても、ほとんどクロッキー風と言ってよい描写の的確さに、心地よい読後感が残った。句全体に、気持ちの良い夏の風が吹いている。『新現代俳句最前線』(2014)所載。(清水哲男)


June 1562014

 蚤虱馬の尿する枕もと

                           松尾芭蕉

(のみ)虱(しらみ)馬の尿(しと / ばり)する枕もと。『奥の細道』の途上、南部道、岩手の里、鳴子温泉から尿前(しとまえ)の関にさしかかった時の句です。この地名をもとに、古くから「尿」を「しと」と読む本が多く流布しています。ところが、最近の「俳句かるた」では「ばり」と読ませています。この一語の読み方で、鑑賞が多少変わるかもしれません。例えば麻生磯次の『笑の研究』(東京堂)では「しと」と読み、山番の貧家に泊まった時の実景として捉えています。蚤虱にせめられて安眠できず、枕元では馬が尿をするという悲惨な体験を詠んでいるが、この句からはそれほど悲惨な感じはでてこなく、むしろこの人生を肯定した悟性的な笑いである、としています。一方、雲英末雄の『芭蕉全句集』(角川ソフィア文庫)では、自筆本に「バリ」とふりがながあることを示し、また、『曽良旅日記』にも「ハリ」とふりがなしているので、私は「ばり」説をとります。なお、松隈義男の『おくのほそ道の美をたどる』(桜楓社)によると、この地方の方言で、人間の場合は「しとする」と言い、畜類の場合は「ばりこく」という用例があると述べていることも「ばり」説を後押しします。さて、掲句前の一文には、「三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す」とありますが、曽良日記をもとにすると実際は庄屋の家に一泊だけの宿泊だったことから考えても、「蚤虱」は実景というよりも虚構性の強い作といえるでしょう。私は、「蚤虱」のmi音の韻に、小さな生き物の存在を託し、「尿」bariという破裂音に、馬という大きな動物の存在を示したと読みます。それを枕元で耳にしている芭蕉の設定は、確かにおだやかな境地であったと捉えることができます。また、微小な存在から大きく強烈な存在へと飛躍させるデフォルメは、ギャグ漫画の手法にも似ていて、詩人は、創作意欲を存分に発揮しています(小笠原高志)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます