「6・15」と聞いても、もはや何も思い浮ばない人が多いだろう。(哲




2014ソスN6ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1562014

 蚤虱馬の尿する枕もと

                           松尾芭蕉

(のみ)虱(しらみ)馬の尿(しと / ばり)する枕もと。『奥の細道』の途上、南部道、岩手の里、鳴子温泉から尿前(しとまえ)の関にさしかかった時の句です。この地名をもとに、古くから「尿」を「しと」と読む本が多く流布しています。ところが、最近の「俳句かるた」では「ばり」と読ませています。この一語の読み方で、鑑賞が多少変わるかもしれません。例えば麻生磯次の『笑の研究』(東京堂)では「しと」と読み、山番の貧家に泊まった時の実景として捉えています。蚤虱にせめられて安眠できず、枕元では馬が尿をするという悲惨な体験を詠んでいるが、この句からはそれほど悲惨な感じはでてこなく、むしろこの人生を肯定した悟性的な笑いである、としています。一方、雲英末雄の『芭蕉全句集』(角川ソフィア文庫)では、自筆本に「バリ」とふりがながあることを示し、また、『曽良旅日記』にも「ハリ」とふりがなしているので、私は「ばり」説をとります。なお、松隈義男の『おくのほそ道の美をたどる』(桜楓社)によると、この地方の方言で、人間の場合は「しとする」と言い、畜類の場合は「ばりこく」という用例があると述べていることも「ばり」説を後押しします。さて、掲句前の一文には、「三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す」とありますが、曽良日記をもとにすると実際は庄屋の家に一泊だけの宿泊だったことから考えても、「蚤虱」は実景というよりも虚構性の強い作といえるでしょう。私は、「蚤虱」のmi音の韻に、小さな生き物の存在を託し、「尿」bariという破裂音に、馬という大きな動物の存在を示したと読みます。それを枕元で耳にしている芭蕉の設定は、確かにおだやかな境地であったと捉えることができます。また、微小な存在から大きく強烈な存在へと飛躍させるデフォルメは、ギャグ漫画の手法にも似ていて、詩人は、創作意欲を存分に発揮しています(小笠原高志)


June 1462014

 梅雨の花林にしろく野にしろし

                           水原秋桜子

日、梅雨時の日差は白いですね、と言われなるほどと思った。曇っていても、本来は強い夏の太陽の存在が梅雨雲の向こう側に感じられる。そして、山法師、梔子、など木に咲く花から、群れて明るい十薬や雨に重たげな蛍袋など、白い花も目につく。自然の白は豊かで優しく、掲出句もそんな花の色の句のはずが、しろく、しろし、とひらがなで重ねると強く、どこか穏やかかならざりしの感があるなと思いながらいろいろ見ていると『秋櫻子俳句365日』(1990)に載っていた。六月の項の著者有働亨氏は、掲出句の前にある<人ふたりへだつ林や梅雨の蝶 >の前書「石田波郷君は東京療養所に、山田文男君は清瀬病院にあり」を引いて「(この重複した表現は)病弟子二人を思う秋櫻子の晴れやらぬ心の韻律」と述べている。そういう背景を思いながら読み返すと、作者の後姿とその目の前で無垢な白が濡れているのが見えてくる。句集『霜林』(1950)所収。(今井肖子)


June 1362014

 白靴の中なる金の文字が見ゆ

                           波多野爽波

事になるが、生前、八十代の阿波野青畝が、祝賀会に白靴を履いて来ていたのを思いだす。白靴は汚れやすいので、通勤などには不向きである。しかしながら、夏になって、いかにも涼しげな白靴を履いていると、お洒落な感じがする。そんな白靴に金の文字が入っていたのが目にとまった。金の文字は、白靴を更に瀟洒なものに見せている。作者の審美眼を感じさせる作品である。『鋪道の花』(昭和31年)所収。(中岡毅雄)




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